誰も貧乏人を養いたくない(日記)


はじめに

 育休中のすきま時間に最近観測しているネット上の景色をもとに思ったことを書き残しておく。

誰も貧乏人を養いたくない

 最近、X(旧Twitter)上でいわゆる自己責任論が非常に多くなっていると感じている。
 こんな人たちに国の補助金を使うのはおかしい。
 こうなったのは自分の責任なんだから自分だけで何とかすべき。
 こうしたことが毎日のようにどこかで議論されており、はっきり言って殺伐とした状況だ。
 誰もが自分の生活を良くしたいと思って過ごしているのだから、自分が払っている税金が自分以外の(自分より努力していないから)金を稼げていない連中に使われるのが我慢ならないのだろう。

社会保障とは

 社会保障とは、「みんなが安心して暮らしていけるようにすること」であり、「みんな」には障害者などの社会的弱者が含まれている。
 誰もが病気やケガ、親の介護や子育て、災害や戦争で満足な生活を送れなくなるリスクを抱えている。
 こうしたリスク全てに気を配り、自分の身に何かが振りかかった時の備えを全て自分の責任で行うことは大変なことだ。安心するための備えが、心配事が多すぎて逆に安心できなくなることにもなりかねない。
 だからこそ世の中には保険サービスが存在し、いろいろなリスクへの備えを自分の代わりに行ってくれる。
 社会保険は国がその経費の一部を税金から補てんしているものの、基本的には国民全体の保険料で国民全体の保険金を支払う仕組みとなっている。
 つまり、国民の誰もがサービス提供者であり、潜在的な(あるいは、安心を買っているという意味では実体上の)サービス受益者なのである。

格差是正

 社会保険は例えば健康保険なら窓口3割負担という平等な制度のように見えるが、保険料が累進制となっており、実際は収入が多い人がより多く負担することで成り立たせている制度となっている。これはその他の社会保険も同じであり、一般に格差是正の側面を持っている。
 所得税や法人税などの税の徴収の場面では金の動きが大きいところから多くの税金を徴収するいわゆる累進課税となっており、これも格差是正の効果がある。
 国の政策として行う補助金、交付金などの制度は、それぞれ政策誘導的な条件を付して配布する(安全保障、景気刺激、産業育成、…etc.)ものであるが、その配布に当たってはいわゆる「市場の失敗」の是正が最大の根拠となる。詳細は省くが、資本主義の下では資本を多く持っている人や法人に資本が集まるので、社会構造が固定化し衰退を招く一因となる。これを回避するための国家的施策として所得を再分配し資本を流動化させる必要がある。
 つまり、所得の再分配や格差是正は単に不平等で搾取されている側がかわいそうだからという社会的正義を旗印として行っているだけでなく、資本主義における「市場の失敗」を修正し、国家としての持続的な成長も目的としているのである。

日本人は「寄付」をしないのか

 日本人は寄付をしないのか。日本人は外国人と比べて薄情なのかというとそうではないと答える人がほとんどだと思う。
 結婚祝いに代表されるご祝儀、香典やお年玉といったイベントでの金銭の授受はまごうことなき寄付と言えるだろう。
 日本では地域で子供を育てる、地域で老人の世話をするということが当然だと考えられてきた。公園に行けばお金を払わずとも紙芝居屋さんが子供に向けて紙芝居をしていた。誰かの親が大勢で遊ぶ子供たちに時に厳しくルールを教えた。隣の家のおじいさんが調子が悪いと言えば、近くの若者が寄って集って面倒を見た。こうした地域の暮らしが当たり前のように存在し、地域社会を維持してきた。
 地域での暮らしは「顔」のつながりである。子供が生まれたらお宮参りに行き顔見せする。結婚式は地域の人たちを呼んで顔見せする。顔を知ってるからこそ、みんなで協力して生活しようという雰囲気が生まれる。
 このように、日本の暮らしの中にも寄付の精神は根付いており、日本人は寄付をしないからダメ、というのは短絡的であると言わざるを得ない。上記のような例は欧米から流入してきた本来の意味での「寄付」とは違うと主張される方もおられるかもしれないが、これはひとえに文化の違いであり、どちらかを一方的に断罪するような性質のものとは言えないと私は思う。他方、今回私が問いたいのは、今の日本に地域のつながりが残っているのかという点である。

地域のつながりを失った日本

 公園で遊ぶ子供を見守る大人、地域で起きた新たな問題を相談に行ける仲介役、独りで暮らす老人に声掛けをする若者、という存在は少し昔の日本では当たり前のものだったはずだ。
 親でも学校の先生でもない大人から物事を教えてもらう機会は子供にとっても大きな経験となると考えられる。定年退職後や配偶者に先立たれた老人にとって老若男女を問わない地域とのつながりは認知症を緩和し、体の不調のセンサーとなってくれるかもしれない。
 では現在、こうしたつながりはその価値を発揮できているだろうか。薄々感じていると思うが、もはやこのようなつながりは失われかけていると言えるだろう。自分自身の生活を振り返ってみても、そうした存在としてふるまうことはできていないし、地域のそうした存在が誰か問われても答えることができない。これはあなたの身近にも言えるのではないだろうか。
 地域のつながりを失った今、親と学校の先生以外が教えることは誰も教えなくなり、代わりに塾という「サービス業」が世の中に膾炙することになった。地域の老人の面倒を見る若者はいなくなり、事業者による介護サービスが提供されるようになった。
 こうして日本人は、困りごとがあったらまずはサービスを探すようになった。子育てで家事がままならない?家事代行サービスに頼もう。
 かつて行政は民間に解決できない構造的課題を解決するための組織であった。それがいつの間にか、全ての社会問題は行政サービスが解決するという期待に変わっていた。あなたが暮らしのことで困ったら初めに相談するのはどこだろうか。おそらく自治体の窓口を探すのではないだろうか。いつしか地方自治体は「世の困りごと一般相談窓口」になっていった。
 新たな社会問題が出てくるのは行政官の未来を見通す力が弱かったせいであり、社会問題が解決されないのは行政サービスが行き届いていなかったからだ。社会問題(と呼べそうな困りごと)があったらまずは国が面倒を見るべきだ。何が問題なのか、国の制度はどうか、細かい困りごとに対応できるのか、など、あらゆることを行政サービスが解決することが是とされた。災害で被災した?とにかく国が何とかすべきだ。

制度の根幹を考えること

 まず国はなぜ興ったのかを考えろとまでは言わない。どうしてその制度が必要になったのか、関与すべき人間は誰なのかなど、少なくとも誰が何をするのが本来望ましいのかという点から出発すべきである。
 例えば、災害を受けたのは本人の責任ではないのは当然だ。ただ、誰もが災害の被害を受ける可能性がある中で、自らの備えだけでは不安だから保険という制度がある。保険とは、誰もが様々なリスクを抱えて生活する中で、それを不安に思う人たちが少額ずつお金を出しあってそれに備えるという仕組みである。国がセーフティネットとなって安心できる社会を作ることに全く異論はないが、保険による契約以上の支援を行うのであれば、本人の努力を助けるという範囲を逸脱しないように気を付けるべきだ。なぜなら、国が集める税金はほとんどが一般会計といって、その用途を限定せずに集める会計に入金されるお金であり、保険による契約以上の支援を行うことについて事前に了解を得て集めているものではないからである。そうであるにもかかわらず本人の努力を妨げるような支援の仕方を行うのは、通常であれば税金を出している全国民の理解を得られないと考えるのが普通である。
 このように、国が運用する制度というのは元々の思想があって作られているし、税金というのは元々、国が国民から一定の信託を得て創設している制度に他ならない。これが崩れると徴税という仕組みそのものが崩れるため、歳入歳出を司る財務省は厳格に運用しているのである。
 このことを踏まえて言えば、「(特定の)地域の困りごと」を解決するために国全体の制度を変更し、支出できる要件などを変更し、国民全体から徴収している税金を投入することは最善な選択肢なのだろうか。答えはノーである。国民全体から徴収する税金は国民全体が利益になるような用途、いわゆる国益に資する用途に使用すべきというのが基本であり大原則である。あえて言わせてもらえば国家公務員は常にこのことに頭を悩ませている。どこかである困りごとが発覚した時、それは国民全体が影響を受ける可能性のあることなのか、それともその特定の地域に特有の困りごとなのかということによって、対応のレベルが異なるということだ。
 議論を元に戻すが、個人の課題を個人で解決できるようになれば、その課題は個人のものとなる。地域の課題を地域で解決できるようになれば、その課題は少なくとも国の課題ではないし、地域で解決できるような環境を作ることも地域の課題と言えるかもしれない。

まとめ

 個人が対応できないことを地域の有識者が助けてくれる社会はいつの間にか過去のものになってしまった。その役割はサービス業と行政サービスが担うようになっている現状にある。一方で、日本は経済格差が引き続き存在するため、サービス業に頼ることができない人もいる。こうした方々にサービスを提供することが行政に求められるようになってしまっている以上、行政はサービスを拡大しなければならない。ただし、いくら格差是正を旗印にしたとしても、全ての国民が上流階級の生活を送れるわけではなく、「健康で文化的な最低限度の生活」についてコンセンサスを得ていくことが必要なのではないか。

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