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【高松割烹組合・八幡神交会・丸亀町と大島青松園との交流】

高松割烹(かっぽう)組合の会長さんが、たまたまスポーツを通じて知り合った子の親御さんは、当時ハンセン病患者の療養施設、国立療養所大島青松園にお勤めでした。

今では患者さんは全員完治しており、感染することはありません。しかし、根強く残る差別意識から故郷には帰れず、実家に迷惑をかけてはいけないと自分から帰らず(以前は島を出る事自体が許されませんでした)、今までも、この先も一生を島で過ごす元患者のみなさん。

できたてのラーメンを食べる機会も無いだろう、と思った会長さんは、自分の店(鯉丹後というラーメン屋さんです)から道具と食材を島に持ち込んで、うどんならぬラーメンをふるまったところ、入所者・職員のみなさんから大変喜ばれたそうです。

そして、寿司を食べる事も無いはず、と思った会長さんは高松割烹組合呼びかけて、大島のみなさんに寿司を食べてもらったところ、もちろん皆さんが感謝して召し上がっていただいて。

その次は、施設内のお祭りはあるだろうけど、ちょうさ(太鼓台となる山車)は無いだろうと、船に石清尾八幡宮に奉納する丸亀町のちょうさを持ち込んで、大島青松園の中を練り歩いたら、これまた、とても喜んでもらえて…

そんな話を鯉丹後で聞いた私は、沖縄に居た時には沖縄愛楽園というハンセン病療養施設に縁があって、何度も訪ねたり、ひどい差別について聞いたりしていたので「次に行く時は、ぜひ連れて行ってください!」と会長さんにお願いしていました。

それがコロナ禍で、長らく一般人の渡航が制限されていましたが、この度、ようやく島に渡れることになりました。私も同行させてもらって、瀬戸内国際芸術祭以来ひさしぶりに上陸。しっかりみなさんの様子を記録しようと思っていたのですが、一緒に予備の法被(はっぴ)を着ることになり、ちょうさの組み立てを手伝うことになり、いつの間にか、ちょうさを担ぐことになりました。

これが… 想像よりずっと重いんです。香川県西部や愛媛県の巨大なちょうさに比べたら小型なので、軽いのかと思ったら、それなりに重くて。

それを肩に担いだり、頭上に高々と差し上げたり、上下にゆらしたり… 太鼓を叩く子どもたちが乗っているので責任重大です。

ただ、入所者のみなさんは、本当に心から喜んでくれて。ハンセン病発症時は四肢の末端、手先や足先等が欠けたり、顔の器官も損傷したりするのですが、不自由な体で一生懸命手をたたいてくれて、合いの手も入れてくれて、私の疲れも吹っ飛びました。生まれ育った土地、なつかしい故郷の記憶を呼び覚ましていただけたでしょうか…

瀬戸内海に浮かぶ、高松の港からわずか8kmと近いけれど、遠くへ遠くへと私たちが気持ちの外へ追いやっていた大島。そして、コロナ禍でいちばん大変な経験をした業種の一つである割烹組合のみなさんが、生涯を通じて大変な思いをしてきた元患者のみなさんのために腕を振るいました。

そこは高松市庵治町大島。

同じ高松市民の方々が生きて、暮らし、亡くなって、一時は700名を超えたコミュニティも、今では70代半ばから90代半ばまでの30数名です。しかし、私たち高松市民の「同胞」が、同じ香川の兄弟姉妹、おじいちゃんおばあちゃんが、確かに、今もそこに居ます。世界でいちばん遠い地球の裏側にもいらっしゃいますし、瀬戸内海のすぐ向こうの島にも居るのです。そして将来、たとえ最後のひとりが亡くなられたとしても、大島と大島青松園が無かったことにはなりません。

午前中の獅子舞、お昼の海鮮ちらし寿司、そしてちょうさ。大島青松園で暮らす人たち、職員のみなさんと私たちが一体となった1日でした。

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