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いちばん苦しかった頃

理学療法士として病院に勤務し始めた頃の僕は、分からないことを分からないままにしておく人間だった。

理学療法士一年目の間は、幸いにも教える事自体が好きなY先輩と同じチームになることができて、臨床の基本を学ぶことができた。
いまの理学療法士としての基礎や考え方、そして考えることの楽しさは全てこのYさんのお陰だったと言っても過言ではない。

しかし、問題は2年目だった。

当時、勤めていた病院では一年ごとにチーム編成が変更になり、組む先輩や上司も変わるというのが通例だった。

理学療法士の世界では、というかうちの病院では1〜3年目程度では、まだまだひよっこで下っ端で、基本的に自分よりも経験年数が上の人と組むことになっていた。

2年目の時に同じチームになったのが、当時のリハビリテーション科の中で最も『怖い』とされ、同期の中で最も組みたくない人No.1とされていたAさん(女性)だった。

Aさんは、見かけだけでなく中身も怖かった。

申し送りの時のAさんの口癖は

「あなたは、この患者さんをどうしたいの?」

であった。

一年目の頃、Yさんの言われるがままに臨床を進めてきた僕は、知識や考え方自体は身についてきていたものの、1番大事な能力が欠落してしまっていた。

すなわち、
『自分で考える・自分の意見を持つ』
ということが出来なかった。

よくよく考えてみると、一年目の頃はYさんの言うことばかり聞いて、自分で考えて行動したことがなかった(Yさんの言う通りにしていたら、本当に物事が上手く進んでいたのだ!)。

そんな時間を過ごしてきた中で、Aさんの「あなたは、この患者さんをどうしたいの?」という質問は、自分の意見のなさを突き付けられているようで キツかった。
初日から数ヶ月間は、毎回Aさんにため息をつかれた。

それは正直、苦しい期間だった。

『なんで考える力を身につけさせてくれんかったんですか…!』と心の中でY先輩に責任転嫁してしまうくらいには、苦しかった。

それでも、2年目の期間をなんとかやってこれたのは、Aさんが真摯に僕に向き合ってくれたから。
そして、Aさん自身のとても患者さんに対するとても真剣な姿を見せてもらっていたから。


Aさんにもらった言葉で、今も大切にしている言葉がある。

“分からないことは別に悪いことじゃない。

分からないことは勉強すればいい。

できないことは練習すればいい。

1番悪いのは、

分からないことをそのままにしておくことだよ”

これは、僕が申し送りの時に言葉に詰まって「いや、僕はバカなので、それに技術もないですし…」と言い訳した時に言われた言葉だ。

その頃は、理学療法士としての自信というものが全くなかったので、本気で出た言葉だった。

しかし、それに対してAさんは先述のような言葉をくれた。

そして、
「あなたがバカかどうかは患者さんには関係ない。あなたが白衣を着て患者さんの前に立つのなら、患者さんの期待に応えられる努力をしなさい」と、言われた。

それからだと思う。
本をよく読むようになったり、勉強会に参加したり、ノートに考えを書いたりして、臨床に一所懸命になったのは。


そうなって以降は、少しずつだけど臨床が楽しくなった。
Aさんとも自分の意見や考えを共有できるようになった。

Aさんは、僕の考えを最後までちゃんと聞いて、それから意見をしてくれた。

2年目が終わり、3年目。
Aさんとのチーム解散の日、Aさんはメールをくれた。

一年間、いろいろきついこと言ってごめんね。
でも、傍で成長を見れて嬉しかったです。
お酒飲んでたら、多分泣いてたな、わたし。

Aさんはチーム解散後、体調不良で病院を退職し、それっきりとなった。

僕は、理学療法士として10年目になった。

後にも先にも、理学療法士人生の中でこの一年間がいちばんしんどかったけど。

自信をなくしそうになったり、
はたまた天狗になりそうな時、
今もAさんとのこの一年間のことを思い出す。

その頃と比べると、僕もずいぶん振る舞いが上達して、以前よりも人間関係や仕事で躓くことは激減した。

だけど、成長できた!と自分で心から感じられたのは、Aさんとのこの一年間だけだ。

もしかするすると、しんどくて、めんどくさくて、傷つくような関係にこそ、 強烈な何かが得られるのかもって思う。

心が摩耗しすぎない範囲で、本気でぶつかり合うからこそ、生まれるものがあるのかもなって思う。

振る舞いが上手になったのは、果たしてよいことなのかどうか分からないけど、遠慮なく、本気でぶつかり合うってことが、僕は少しだけ恋しい。

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