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あの日に帰りたい

「あー、もう帰りた~い」
会社や学校でそう思ったことのある人は少なくないだろう。この場合の『帰りたい』場所は恐らく『今、住んでいる自宅』であることがほとんどだと思う。

老人ホームでは利用者の口から常々『帰りたい』という言葉を聞く。多くは入居するまで住んでいた家に帰りたいわけだが、すべての人がそういうわけではない。

介護あるあるで、もう50年も住んでいる家で介護をしているのに『帰りたい』と言われて困ったという話がある。

そんな時はまずどこに『帰りたい』のかを探ってみると思わぬ話が飛び出してきて面白い。
「ご家族は何人ですか?」
などと聞いて今、どの時間軸にいるのか手がかりを得る。
例えば、「2人」と言えば、新婚時代か子どもたちが巣立った後の家かな?「10人」と言ったら幼少期の大家族だったときかななど。

ただ、親や配偶者の都合で方々を転々とされていた方は色々な土地の記憶が混ざっていて一ヶ所に絞りきれないこともあるし、配偶者の記憶と両親の記憶が混ざっている場合も多いが、なんとか糸口を見つけ思い出を辿っていく。例えば、その方が幼少期過ごしていたのが北海道だったとする。
「北海道と言えば、海鮮ってイメージですよね。この時期だと何がおいしいんですか?」
「冬は厳しそうですよね。冬はどれぐらい雪が積もるところなんですか?」
「体育の授業でスキーやったりするんですか?」
「え?下駄でアイススケートするんですか?すごーいっ!」
「子どもの頃からやってたら上手になりそうですね」
「ところでエビはどう料理するのがおすすめですか?(急展開)」
「今夜はエビ天ですよ。さあ食堂に行きましょう!」

と、うまくいくとは限らないが、60%くらいの確率で帰りたい気持ちと一時的に距離を置ける。この記憶を辿る作業で手を抜いてはいけない。できるだけ、気持ちよく語りだすまで、根気強く質問し、共感する。これを、毎日自宅で身内とやるのはかなり心がしんどいと思うのだが、中には話しているうちに、『そうだ自分は北海道で育ったけど、就職して東京に来たんだった』とパズルのピースがはまるように過去と現在の状況を思い出す場合もある。

そのような話の中で、通りすがりの介護士が聞いてもいいのだろうか?という秘密の話が飛び出す場合が多々ある。

その秘密が初恋や結婚にまつわる乙女の秘め事であることは多く、時代が違っても考えることは同じだな、と思うと一気に心の距離が縮まる。なにより、仕事だからではなく、心から共感したり、尊敬したりするとそれは相手にも伝わる。そうして信用を積み重ねているとその後に心を開いてくれて、ちょっと心苦しいお願いなども「あなたの言うことなら仕方ない」と協力してくれるようになることもあるからコミュニケーションは大切だなと常々思っている。

だが、乙女の秘め事レベルではなく、家族の出生の秘密や、なんだかすごい額のお金の話だったりすると、どんな顔して聞いたらいいのかわからないのが難しいところだ。

不思議なもので、『帰りたい』スイッチがある人とない人がいる。言う人は毎日言うし、言わない人は全く言わない。もちろん、言わなくても帰りたい気持ちはあるのかもしれないが。

多くの人は自分が一番忙しくしていた時代に帰りたいように感じる。現役で仕事をしていた時や子育てに追われていた時など。だから、会社員だった人は朝は支度をして家(この場合は施設)を出ようとするし、主婦は洗濯物を集め、夕方になれば会社員は会社(この場合は施設)から家に帰ろうとするし、主婦は、夕飯を作りにやはり家に帰ろうとする。

中には幼少期にピークを迎えている人もいて、夜中に「お母さんがいない」と泣いたり、昼頃に「今日はおばあちゃんと靴を買いに行く」とおめかししている人もいる。

帰りたいのに帰れない場所がある人は幸せな人生だったのか否か。時々考える。私もいつか今日の日を思い出して帰りたいと思うのだろうか。



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