瀬戸内に潜る 出逢う 2日目 <地中・モネ>
地中美術館のエントランスから続く細い廊下を抜けると、三角形に切り取られた吹き抜けの中庭にぶつかる。
三角形の一辺、一片をなぞるようにまた深く地下へ潜っていく。
斜めに切り出された廊下と壁が平衡感覚を狂わせ、僕は不思議な感覚に陥った。
僕はいま、降りているのだろうか。
それとも、昇っているのだろうか。
静かな地下に降り立つと、そこにはモネの部屋へとつながる入り口が開けていた。
モネの部屋
モネの部屋は真っ白な壁、真っ白な床、真っ白な天井から成り、天井の開口部からは外の自然光が入り込み、それが部屋全体の照明となっている。
床には無数のタイルが敷き詰められ、部屋の隅にはいつまでも触っていたくなるような質感の大理石のベンチが置かれていた。
ここにある色は、すべて白。
その白い空間の中に、見上げるほど大きな「睡蓮」の絵がかかっている。
角度によって色彩を変える水面の蒼さ、紅い、紫のような反射の光、ただ光の反射とは思えない自然光は太陽の陽を受ける水面の美しさのそれのように見えた。
モネの部屋では、静かに、その一枚の絵と自分とが向き合う時間だけが流れていた。
プレゼンテーションの美学
モネの部屋の鑑賞体験を作り出している仕組みがある。
それは、入り口に置かれたスリッパだった。
モネの部屋には、靴を脱いで上がらなければならない。
入り口でスリッパに履き替えるのだ。
もちろん、スリッパの数には限りがある。
つまり、スリッパの数の人数しか、一度にはモネの部屋に入ることができないのだ。
スリッパの数は少なく(確か6か7前後だったように思う)、したがって一度に入れる人数も少ない。これが、ちょうど絵の数と同じ程度になっていて、つまり一人が一枚の絵と向き合うことができるようになっているのだ。
モネの巨大な睡蓮の絵の前に立つと、周りには他の誰も視界に入らない。
視界にあるのは、ただ白い壁と、睡蓮の絵だけ。
絵に近づき、遠ざかり、自分と作品とのちょうど良い距離感を見つけ出していく。
ほどよい距離で絵の世界と自分の世界がシンクロし、没入することができる。
この体験は、作品と向き合ううえで、他にはない圧倒的なものだったと思う。
この体験をまたするためだけだとしても、直島を再び訪れる価値がある。
そう感じられる時間だった。
部屋を後にして思うのは、この部屋だけでなく、やはり入り口のスリッパによる仕掛けもこの体験を演出する装置の一つになっているのだと思う。
仮に入場規制を行うにしても、スタッフの方が入り口に立って案内をしたら体験は全く違うものになってしまうだろう。
見せ方、届け方、プレゼンテーションにおける美学が、ここにあった。
以前に新潟で音楽祭をやっていた際に、フランス人のアーティストに日本の伝統的な家屋の中で演奏してもらうという機会があった。
その際にふと、家の廊下に置かれた花瓶を見て彼が「美しい」と息を漏らした。
僕は、「? フランスにも花を生ける文化はあるでしょう?」と言ったら、彼は「プレゼンテーションの仕方が違う。僕はこれを美しいと感じるんだ」と話していた。
そのことを、何年も離れた、何百キロも離れた直島の地中で思い出した。