見出し画像

私が私になるまで -誰にもなにも相談されない地元編-

ひらたあやです。

noteに何を書いていけばいいかな〜と悩んでいた時、

「ひらたなりの"人との向き合い方"みたいなものを教えて欲しい、どうやって今のひらたがあるのか知りたい」

というなんとも有難いリクエストを頂いたくせに、書けることが固まらないまま今に至っていました。

だけど最近ツイッターで話題の「ショタのラブドールを買った漫画」の件について考えていたら、なぜか"どうやって自分ができているか"という部分に立ち戻ったのでいよいよ書いてみようと思います。(漫画がきっかけだっただけなので、言及しません)

わたしはよく「コミュ力おばけ」つまり「コミュニケーション能力が高い」と言われるのですが、自分ではコミュニケーションは上手な方ではないと思っています。卑屈になるので具体的なエピソードは出しませんけども。

きっとそう言われる人間になったことと、私が私という人間になった経緯とはリンクしていると思うので、どっちつかずの文章になってしまうかもしれませんが…ここからする自分語りというやつで過去の自分を振り返っていこうと思います。

書いていたら長くなりそうだったので、時期毎に分けてみます。

地元・愛媛でのわたし

まずは地元・愛媛の田舎で暮らしていた頃。簡単なカテゴライズに逃げて表現すると、わたしは"人見知りのオタク"でした。人に話しかけるタイミングがわからない・先生を呼べない・自分の好きなこと以外には興味がない・群れに属せない…仲の良い友人に「淡白だよね」と言われたことは「なんかかっけーな」と思ったので鮮明に覚えています。

中学生の頃。

恋愛の話や友だち同士のいざこざなどが生まれてくる時期ですが、私はまったくそういう事情を知りませんでした。ふと気づいたんです。「あ、私そういう話を誰からもされないんだ」と。

山の上にある学校へのあまり整備されていない石階段を登りながら「私は人から相談されるタイプじゃないんだ。仲の良い友だちでも、相談をしたい時は私以外にするもんなんだ」と諦めみたいなものを感じていました。うっすらとした寂しさはありましたが、まあ相談されても困るし!その分みんな趣味の話は私としてくれるし!とあっけらかんとしてたと思います。

その気づきもあって中高は、半分意識的に「○○の話をする友達」と相手を基本分けていました。漫画の話をする友達、ジャニーズの話をする友達、みたいなかんじで。

友達っていうのは「○○の友達」っていうだけで、すべてをお互いに打ち明けて受け入れ合うなんてことはすごく大変なことだ、と思ってたんですね。

なので、友達とできない話がある場合は早々に普及したてのインターネットで友達を作ったし、昼休みはおろか校内の移動中や掃除の時間も本を読んでいたし、夢や悩みは自分で考えてどうにかしていました。

親や家族に対しても同じ考えでした。「この話は母は興味ないだろうな」などと先読みして、話すこと・話さないことに分け、相手が楽しくないであろう話はしない。

部屋に上がって、アニメ雑誌で見つけた文通相手に手紙とイラストを書いて、ノートに創作キャラの設定と立ち絵を書き殴る。居間のPCに張り付いてお絵かきBBSで好きなキャラの絵を書いて誰かと語り合う…。「話せない話題は話す相手を見つければいい」そんな学生時代でした。

まなび?

・相手のすべてを知っていなくても卑屈になることはない

・人は無意識に話したい内容ごとに相手を選んでいる

・どんなに小さく軽い話題の相手でも、私はその子にとって必要である

ここまで明確にできるのは大人になったからこそですが、きっとこういう気づきでした。田舎の狭いコミュニティの中で、「誰かに必要とされる自分じゃなくてもいいんだ」と自分の好きに生きていたことは我ながらなかなか良いじゃんと思います。その心を表すかの様に、派手!柄!色!みたいな古着っ子に育ち、妹の友だちに「お姉ちゃん魔女みたいだね」と言われて妹に嫌がられていましたが!

あの頃の私は、子供ながらに「個性化」を目指していたんだと思います。「私は私しかいない」「他の誰も私にはなれない」と自分に言い聞かせる様に。

そして、リアルで対峙する人間の気持ちはすべて理解できないけれど、小説や漫画の人物たちの心情は事細かに描写され、自分にはできない体験とそれに応じた気持ちの動きが体験できる。「誰のことも本当には理解できないし、誰も私のことを本当には理解できないのだろう」という気づきに、やっぱりどこか寂しく思っていた私は、本の中の人々にめちゃくちゃに救われていました。

小学生で漫画家に…中学生で声優に…高校生で舞台俳優になりたいと思い描いた夢には、そういうフィクションに救われて、「自分にはできない体験と気持ちを生み出したい、自分で体現したい、表現したい」という気持ちがあったんじゃないかと思います。

コミュニケーションへの影響

コミュニケーションの話で今に繋がっているのは、

「相手を理解することは簡単なことじゃないんだから、歩み寄りたい場合は考えていることを言葉にしなくては」ということですかね。

逆も同じで、誰かの発言や行動の一片を見聞きしただけで「理解した気になってはいけない」と思っています。これって言葉で見ると「そりゃそうだ」って感じなんですけど、

「こんなことをしたから相手にもう嫌われていると思う」とか「こんな私は好かれるわけない」とかとか、みんな結構悩んでるんですよね。

嫌な言い方ではありますが、それって相手の気持ちを勝手に理解したつもりになって決めつけてないか?と思うわけです。予想が的中することもあるでしょうけど、過剰に想像して相手の本当の気持ちを決めつけるようなことをした結果、仲が拗れている人たちが多いのも事実です。

なぜか今はそういう対人関係の相談をよく受けるようになったわたし…なぜこんなに変わったのかはよくわからないな…?

(今思えばあの頃「この話題はこの人は興味ないだろう」と先回りしていたわたしだって、相手のことを勝手に決めつけてますよね。良い悪いではなくて、小さな可能性を潰しているかもな〜と思うわけです。)


今日はこの辺で。次は文章がまとまり次第、ミュージカル俳優になるべく、大阪のスクールに通い始めた頃の話でもします。アメ村のアングラな世界とマイノリティな人々との出会いが主になるかな?

よかったらハートマークをぽちっと押してくださると嬉しいです!次も書くぞという気合になります。フォローもよかったら…よかったら…よかったら…。

Photo by TOKI.


この記事が参加している募集

自己紹介

よろしければサポートお願いします!制作や演劇活動のために使わせていただきます。