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私が私になるまで -ミュージカル俳優になりたい編-

どんだけ時間あけとんねん、という、私が私になるまでシリーズを久しぶりに書いてみようと思います。

前回は地元編。
「友だち」というものを勝手に決めつけていたコミュニケーション下手だった私のことをサクッと書いております。よかったら読んでみてくださいませ。

本来は「人との向き合い方を」というリクエストだったんですが、せっかく時系列で行くならここも書いておきましょう。私がミュージカル俳優になりたいと思い、どう地元を出るに至ったか。編。です。

実は私は19歳の頃から劇団四季で俳優として5年半ほど活動していました。そこに至るまで…だと少し長すぎるので、まずは学生だった私なりの「夢のと向き合い方」ってことで。どうか一つ。

まずは漫画家

小学生の頃は漫画家になりたかった。絵を描くのが好きだったし、お小遣いは全て漫画にしてしまうくらい漫画が好きでした。
地元の商店街にあった小さな本屋と(「シオン書店」という名前だった気がする。今思えば結構オシャレ。)古本屋に通い詰め、少ないお小遣いと睨めっこしながらずうっと漫画を読む生活は、高校生になるまで続いていました。
漫画クラブに入って、ゴリゴリ漫画を描いていた…と言いたいのですが、私に漫画を描き切る胆力はなかった!ひたすらに「設定」を量産していました。

世界を考えるのが好きでした。
人物設定を、名前を考えて、その人がどんな見た目をしているか…
そしてそれがどう世界と関わっていくのか…そんなことばかりを考えて、肝心の漫画はいつも5ページくらい書いたら飽きてしまって次の設定!表紙!イラスト!に取り掛かっていました。

小学生の私は「りぼんか、花とゆめの作家になろう」と決めていました。最初はりぼんっ子だったけれど、高学年で花とゆめに出会い「恋愛一色じゃない、ファンタジーや多様な人々を描く漫画たち」に夢中な私。
あの頃は若い漫画家さんが多かったので(高校生デビューとか)私もそうなろう、と思っていました。5ページで諦めちゃうくせになんという根性。

そして声優

美術部で相変わらず絵を描きまくり、授業中はキャンパスノートに二次創作漫画を描き殴っていたオタク少女だった私は、中学になってワンピースのアニメ…というか、キャラソンアルバムに大ハマりしました。
私の人生を揺るがした田中真弓さん。
子どもの頃からなんとなく女の子扱いされるのが嫌で、男の子になりたいと願っていた私は「声優なら男の子にもなれるんだ!」と感動したのかもしれません。

とにかく「少年声の女性声優」に憧れまくりました。
部屋でものまねしてキャラソンを大熱唱。大好きな漫画を全部声に出して読む。ああ、恥ずかしい、今思えばその時代にスマホがなくて本当に良かった。私が親ならそんなおもしろ映像、撮影してしまうに違いありません。残っていたら最悪です。

小学生の頃に合唱団にも所属していて、歌うことも好きだった私は「歌える声優」でありなんと劇団で舞台までやっているらしい田中真弓さんを大尊敬していました。
そして相変わらずなんの怯みもなく「青二プロに入ろう」と思い至ります。
青二プロダクションは声優事務所の中でもものすごい事務所です、多分。

まずは事務所の養成所である「青二塾」だな!と意気揚々と詳細や案内を調べ、母親に「ここに入る」と宣言していました。母がどんな反応をしていたかは覚えていませんが、なんとなく受け入れてもらっていたような気がします。小学生の頃から漫画一直線!!だった私が、会社や大学に行くとはもう思っていなかったのかもしれません。

ついにミュージカル俳優

部屋で歌って、漫画の台詞を読んで、そして小説やイラストを描きまくるオタク少女だった私が出会った「劇団四季」

小さい頃から、劇団四季は大好きでした。というか、なんかそういうものは劇団四季しかないと思っていました。あと影絵の団体とか…!八幡浜というど田舎で唯一上演してくれた「桃次郎の冒険」は忘れられません。お風呂で一生テーマソングを歌っていて、隣のおばちゃんに「あやちゃん歌上手だねえ」と褒められた恥ずかしエピソードもあるくらいです。
(桃次郎の冒険はなんと私の劇団四季で出演した最後の演目になりましたし、この八幡浜公演に出演されていた先輩方とエルコスの祈りで共演することにもなります。搬入口が空中にある意味わからん劇場であることを先輩方から聞いて初めて知りました。)

だけど小・中の私の意思は堅かったのです。
声優という夢を介したせいもありますが、福岡で観た「ライオンキング」そして広島で観た「Cats」が特大の引き金となり、私の「これになる」が始まります。

中学の最後で「劇団四季に入ろう」と思い、高校生ではダンス部に入りました。歌も台詞も大好きだしなんかできる気がするし、あとはダンスだな!とか相変わらず思っていたわけです。
そして相変わらずすぐにスクールを調べます。いきなり東京に行くのはなんか怖いから、とりあえず大阪にしよう。劇団四季の振付をやっていた山田卓先生が創立した学校があるらしいからSTAGE21にしよう!(今思えば山田卓先生を基準にしたのはセンスが良い)

しかし大問題。私は極度の運動音痴なのです。
ダンスももちろん全然上手くねえ。しかも調べてみると、どうやら小さい頃からバレエとかをやってる人間がめちゃくちゃいるらしい!!
スクールの入学試験ではダンスも見ますと書いてある。これはいかん。そう思い、高3の私は親に頼み込んで毎週末松山までエッサホイサと汽車にのり、バレエの教室に通い始めました。確か同じ先生のレッスンで平日夜にジャズも習っていた。ちなみにそのダンスの先生も自分で探し出し、時間も調べ、部活の大会出場とかも顧問に直接お断りをして休む許可をもらった気がします。ダンス部の顧問が家庭科の先生だったので、その話をした日の夕暮れの家庭科室の風景をよく覚えています。

ダンス部の先輩に、私が合唱団で憧れていた先輩がいました。その先輩に「劇団四季に入るのは絶対無理」と言われたこともめちゃくちゃ覚えていて当時はムカついていたのですが、普通にその先輩の言うことが正しかったと思います。
だってなんにもやってないのに、なぜか入る気満々だったんです。
周りが大学受験だ、就活の面接練習だ、とざわついている頃、私は元気いっぱいにダンスレッスンをして、誰もいない朝の体育館のステージで歌って、憧れの保坂知寿さんのモノマネを練習し(嘘みたいだけど真剣にモノマネしていました)スクールに通うことだけを考えていました。それしかない!と思っていました。

ここからはまた別の機会に…

そして、まあ、なんやかんやあってスクールに合格し大阪に引っ越してSTAGE21に通い始め、2年目の夏のオーディションで劇団四季に合格してスクールを途中で辞め、19歳で劇団四季研究生となるわけですが…まあ、これはまたいつか。

夢との向き合い方

私は「こうなりたいな」「これがしたいな」が無かったことがありません。ずうっと毎日夢と目標があり、気になることがあり、その穴をほじりつづけて今まで来ました。
これが正しいとは正直全く思いません。夢がある方が素敵だって言われるけれど、私みたいな人間は本当に視野が狭いというか…いつだって何かに夢中で、手が回らないことが多すぎるのです。

だけど自分の好きなところは、やりたいことは夢のままにせず、夢への距離感に怯まず、とりあえずドン!と目標に据えることができることかもしれません。

親を説得するにも、「これになりたい」ではなく「この学校に入る」とか「そのためにこのスタジオに通う」とか「必要そうなことはトコトンやってみて見せる」みたいなことをしていたのかもしれません。当時は本当に策略とかじゃなく無意識だったけど。

結果今も母には心配をかけていて頭が上がりませんので、本当にこれは美談として書けるようなことではありません。啓発されるようなこともないでしょうが、啓発されないであなたらしく生きてください!!笑

ただなんとなく、私が私になるまで…を色んな方向から書き記して、誰かに「似てるな」とか「全然違うな」とか思ってもらえたら幸いです。
前回も書いたんだけど、次回こそ大阪時代のアメ村で出会った多様な人たちとのことを書きたいと思います。

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Photo by MiMi

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