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朝を待つ

朝が好きだ。

子どもの頃から、まだ誰も起きていないうちに一人起き出して、階段上の小窓から薄暗い風景がだんだんと白んでいくのをひっそりと見るのが好きだった。

向いのビルの窓はまだ一つも灯りがついていなくて、近所の家々の中にも灯りがついているところは一軒もない。

小窓から見わたせる景色が世界の全てのようで、辺りは静謐で、窓に近づけている鼻と指先が少しかじかむくらいの寒さがかえって心地いい。

外の景色をじっと見ていると、だんだん、だんだんと、大きなビルの後ろから眩い光が差し込んでくる。赤とも白とも金色とも言いがたい清潔な光は、やがてビルを全て飲み込んで、家々の屋根を照らし、道路を照らし、わたしが覗き込んでいる小窓にも差し込んで、二階の廊下をやわらかく照らす。

夜の終わりと朝の始まりが入り混じる瞬間は子どもながらに神々しく感じられ、何かに祈りを捧げたいような、お礼を言いたいような、本当に不思議な気持ちになったことを今でもよく覚えている。


子どものときに体験したあの朝の記憶があるから、大人になった今、どれだけ寝起きが辛くても、お弁当をつくるのが面倒でも、これから始まる一日が憂鬱であっても、わたしは朝が好きなままだ。



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今の季節は、夏に比べると朝日が昇るのが遅い。

夏の頃は、4時半を過ぎれば外は結構明るくなっていて、リビングの窓を開けると気持ちのいい風が吹き込んできたものだった。

秋が深まって冬に近づきつつある今はというと、4時半はまだ暗い。5時になってもまだまだ暗く、時計を見なければ夜と勘違いしてしまいそうだ。

それでも、5時半頃になるとだんだんと外が白んできて、近所のマンションにもちらほらと灯りがともり始める。

窓を開けると吹き込んでくる風は身が縮むほど冷たい。寝起きの体には少し堪えるが、息をするたびに頭がすっきりと冴えてくるような感覚はとても気持ちがいいものだ。

部屋の空気を入れ替えつつ、顔を洗って髪をとかすだけの、ごく簡単な身支度を済ませる。

部屋がすっかり寒くなったら窓を閉めて暖房を入れ、自分のためだけに温かいお茶を用意し、お弁当をつくり始める。

のそのそと夫が起きてくる。「おはよう」と言う。寝癖が爆発した頭と、全然開いていない目を見て笑う。眠くてたまらず、この世の絶望を全て背負ったかのような顔で佇む夫を励ます。「起きてきて偉いわよ」「古今東西一の偉さ」などの励ましを背に、よろよろと洗面所へ向かう夫。

お茶をいれる。パンを焼く。ヨーグルトを出す。テレビをつける。トースターのチン!という音に、香ばしい匂い。食器越しに伝わるヨーグルトのひんやりとした温度。お茶から立ち昇る湯気。アナウンサーはニュースを読み、わたしと夫は向かい合って座り、「いただきます」と手を合わせる。


この朝を、もう何度迎えたことだろう。


何の変哲もない朝だけど、朝が来るととても嬉しい。朝ごはんなんて、晩ごはんに比べたら一瞬で過ぎ去ってしまうものなのに、毎日好きな人と手を合わせてきちんきちんといただいていると、まるで儀式を積み重ねているような特別な気持ちになってしまう。

東日本大震災で被災したときは、もう自分には、家族には、朝なんて来ないんじゃないかと思った日もあったけど、体が生きてさえいれば、また朝を迎えられることを知った。朝の光に照らされると、絶望した心に一筋の救いがもたらされることも。

震災を生き延びても、仕事や人間関係や、日々のアレコレで思い悩むことはある。いい大人のくせして横断歩道ですっ転んで膝から血を流したり、際限なく振られる仕事に潰されたり、腰痛をこじらせたり、夫と喧嘩したり、不安で眠れない夜があったりもする。

だけど、わたしの心のずうっと奥の方には、子どもの頃に小窓から眺めていた美しい朝の風景がある。『今』感じている不安や苦しさに飲み込まれそうで眠れない夜は、心の中であの朝を取り出して、一枚の絵のようにじっと見つめる。そうしているうちに恐ろしい今は過ぎ去って、今度は心の中ではなく、正真正銘、現実の世界の朝が訪れる。


駆け足でやって来る夏の朝もいいけれど、長い夜の末にじんわりと訪れる秋冬の朝もいい。

本格的に冬になる前に、夫に内緒で、朝の光を待つための一人きりのお茶会を開くのもいいかなと思っている。







長く続けることをモットーに励みます。