団塊の世代ジュニアの少年時代(本編4)

3回目からはや3ヶ月が経ってしまった。
続きを。
4回目は釣りについて書き残しておきたい。
私が住んでいたのは、吹田市。小学生の男子は釣りに凝る割合が多かった。
自宅から、神崎川や淀川に自転車でいける距離だったので、日曜日に朝早くから、出かけていた。淀川は自転車でも1時間以上かかったのではなかっただろうか。
淀川にはわんどという川沿いに池がいくつもあり、本流ではなく、そのような池で鯉やふな、ブラックバスなどを釣っていた。
まだ、家から近い神崎川で朝7時ぐらいから釣りを始める。海釣り用の投げ竿で、吸い込みに餌をつけて、投げて当たりがあるまで待つという釣り方。
そう繊細な釣りをしているわけではなかった。
吸い込みなので、釣れても鯉やふな、ボラも釣れた。なまずがかかったことも記憶している。
釣るのが楽しいのであって、食べるわけでもなく(当時まだヘドロ臭い川だったので)。
そう、思い出した。わんどで釣っていると、ブルーギルがやたらと釣れる。家に持って帰ると、お袋が臭い消しの意味も含め、揚げて酢漬けにして料理してくれた。食べたこと思い出した。ブラックバスと同じで、肉食なので、白身で淡白な魚で美味しく食べたと思う。

釣ってきたフナを小学校の集いの池に離したこともあった。直径3mほどの池には30センチもあるフナは大きすぎるかと思うが。

アマゴ釣りにも行った。
土屋先生が2月の解禁日にアマゴ釣りに行くがついてくるかというので、ついて行った。
吹田市から先生の車に乗せてもらい、滋賀県の愛知川や犬上川に行った。
2月なので、まだかなり寒い。そんな釣りの装備を持っていないので、先生に借りてしていたと思う。
イクラを餌に釣るわけだが、素人にそんなに簡単に釣れるものではない。アマゴをたくさん釣って持って帰ったという記憶はない。アマゴ釣りで覚えていることは、お弁当事件だ。
アマゴは朝早くから釣らないと釣れないので、自宅を出るのは夜明け前になる。朝ご飯と昼ご飯の弁当を作ってもらって出かけた。
釣り上がっていくので、お弁当類を先周りして置いておいた。
お昼ごろになり、その弁当類をおいているところまで、到着すると、道路にプチトマトが転がっていた。弁当にプチトマトが入っていることを知っていて、なんで道路に転がっているんだ?となる。
走って、荷物をおいているところを見ると、荷物が散乱しているではないか。
そう、カラスが弁当を穿り出して、食べてしまっており、その中にあったプチトマトが転がっていたのである。
先に書いたように、寒いし、釣れるわけでもないし、腹が減ってようやく弁当を食べようと思ったら、なくなっていた。
当時の焦燥感を書いていて、思い出した。

帰りに、名神の八日市インターそばにあった、ラーメン藤にて、特製チャーシュー麺を食べたときの幸福感は今でも覚えている。
今、その八日市インターのラーメン藤はなくなったが、私にとって、滋賀県のラーメンといえば、ラーメン藤だ。

このようにして、釣り少年は作られて行った。釣りトップという月刊紙を購入するようになる。
当時、ブラックバス釣りがブームとなっていた時代でもある。外来魚が琵琶湖で問題になっているということを知るのはそのあとのこと。


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