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「安全保障戦略」(兼原信克著)を読んで

本書は、元外交官で一昨年まで国家安全保障局次長の要職にあった兼原信克氏が法学部学生にした講義録をもとに執筆された本である。「安全保障」問題が狭い技術論だけでなく、世界史や政治哲学のパースペクティブを以て語られていることと、かなり大部な本だが読者をして一気に読ませてしまう、張りのある文体が魅力な一冊である。(日本経済出版 2021年4月刊

本書第Ⅰ部で語られる行政組織論は、第二次安倍内閣の官邸の内側で7年間を過ごした著者(兼原氏、以下同じ)ならではの実感に裏打ちされている。なかなか聴けない話だから、学生は惹きこまれるように聴き入っただろう。

また、インテリジェンス(情報機関の活動)とは、どういうものかについて、「インテリジェントサイクルとは何か」「外交情報とインテリジェンス情報は何が違うか」といったかたちで、その一端が紹介される。「関係省庁は安全保障やインテリジェンスに関する基本知識を欠いている」という指摘のとおりで、経産省に勤務していた筆者(津上、以下同じ)には初耳のことが多かった。

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本書には、幾つか意外な点がある。その一つは、第II部「国家安全保障戦略論」が語る中身だ。

地政学とか軍事バランスといった事柄かと思いきや、中心に据えられているのは、自由主義や民主主義など価値観のことだ。著者は世界史を紐解きながら、これらの価値観がどのように形作られてきたのか(それは過ちを繰り返す中で育まれた)、なぜそれを守らなければならないのかを繰り返し語る。

安全保障論は「我々は何を守るのか」「なぜ守らなければならないのか」を突き詰めるところから組み立てなければならない、そうでないと「どう守るのか」も論じ得ない…著者はそんな信念から、この建付けにしたのではないかと推測する。

そこで特に目を惹くのは、自由や民主主義といった「西欧思想」が「借り物」ではないことが繰り返し訴えられていることだ。

(西欧思想は)東洋の「私たちに馴染みの深い王道思想や仏法思想と通底している」「だから、私たちも、何のてらいもなく、それを西欧の価値観ではなく…私たちが共有する普遍的な価値観と呼ぶことができる」(164頁)。

これも筆者の勘ぐりだが、価値観に関する著者のこだわりは、昨今「普遍的価値観」というものが中国から真正面の挑戦を受けるようになったことが深く関わっているのではないか。

中国から疑問を呈され異議を唱えられているからこそ、改めて自由主義、民主主義といった西側価値観の内実と意味を見つめ直して定義する努力が求められているのだと思う。逆から言えば、昨今日本では「価値観を共有する(西側諸国)」という物言いが深い考えもなしに使われ過ぎているのだろう。

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「中国とどのように向き合うのか」は、日本という国にとって、いよいよ死活的な大問題になっている。著者が本書を執筆した大きな動機もそこにあるはずだ。

本書のもう一つの意外な点とは、その中国に対する著者の考え方だ。

昨今盛んに聞く「価値観を共有する」という物言いは、たいてい「しかし、中国はそうではない」という「排除」の含意を濃厚に帯びている。日本でも世界でも、中国を「異物」「本源的な敵」であるかのように描くものが増えている。

しかし、本書は中国を「発展段階」にあると捉える。

「工業化の初期に国力が急速に膨れ上がり、新しい近代的なナショナリズムが噴き出す過程で、誰もが経験する一種の自信過剰、自己愛、あるいは青年期の自己主張のようなもの」(247頁)

とみるのである。

「成熟した国民は必ず民主化する。問題は、そのためには時間が必要であり、民主化以前に大きく道を踏み外して、対外的な冒険主義に出たりするかもしれないということである」(254頁)
「中国は、すぐには国際的な協調路線に戻らないであろう。もしそうであるとすれば、私たち自由主義陣営には、中国がピークアウトする今世紀中葉まで、いかにして中国と向き合い、中国との関係を安定させるかという大戦略を考えなければならない。(249頁)

中国が今どういうステージ(段階)にいるか?を問うことは、中国は変化の過程の中にいるという仮定に立つということである。

昨今は「中国共産党は、建国以来一貫して米国から覇権を奪うことを秘めた目標にしてきた」といった言説(「百年マラソン」)も流行している。そういう言説には、世間が飛び付く「キャッチー」さがあるが、人間性に対する洞察を欠いている。

昨今は過去の文献のデジタル化がどんどん進んでいるから、探せば30、40年前にも「米国から覇権を奪う」と唱えた中国人が実在したかもしれない。

しかし、当時の中国では、「われわれ中国は後れている」という自虐意識と西側の「先進国」を仰ぎ見るような憧憬・崇拝意識が今では想像できないほど強かった。圧倒的多数の中国人は、仮にそういう言説を耳にしても、肩をすくめて「医者に診てもらえ」と感じたはずだ。

こんにち世界を不安がらせる中国の強い自己主張は、過去わずか10年あまりの西側と中国の力関係の変化が中国人の集合意識に大きな影響を与えた結果生まれたもので、「変化」そのものだ。

そうやって「変化」してきた以上、中国はこれからの環境変化によって、さらに変化するだろう。「中国共産党は一貫して覇権を目指してきた」といった決めつけは、思考停止を招いて今後の変化が見えなくなるもとだ。

「成熟した国民は必ず民主化する」と唱える著者には、「決めつけ」を排するリアリストの眼と同時に、「気難しい巨体の隣人」(254頁)だが、排除せずに、包摂しようという懐の深さを感じた。

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以下は蛇足である。中国について「決めつけ」をしない著者の姿勢には大賛成だが、兼原氏が提起した「中国は民主化するか」について、二つ問題提起したい。長くなるが、興味のある方にはもう少しお付き合いいただきたい。

昨今は大量の中国人留学生が米国を始めとする西側諸国に留学するようになった。彼らは留学先で「西側価値観」をたっぷり体験したはずだ。ところが、少なからぬ留学生は、帰国後「共産党の指導」を是とする体制肯定派になる。

それは、身を立てていくための処世の智惠かもしれないし、留学中に自由や平等の建前とは裏腹に、アジア人には越えがたい「ガラスの天井」や欧米の醜い「ダブルスタンダード」を体験したせいかもしれない。

しかし、もう一つ、西側価値観の良さを認めても「でも、中国では無理だ」という諦観がそこに働いている、というのが筆者の見方だ。

中国語(漢字)とその上に築かれた中国文明は、その偉大さの故に、統治の効率をはるかに超過する版図を中国にもたらした。そのせいで、容易に治めがたい宿命を負っているのが中国という国だ。

多くの中国人は「権力の分立」という言葉に、チェック・アンド・バランスでなく、天下大乱の兆しを感じてしまう。「西側流の自由や民主などを中国で認めれば、国が乱れてしまう」と怯えがちだ(トランプの4年間は、コロナ対策や政治の分断で「自由と民主の本家米国でさえ、あのザマだ」と中国人の確信をさらに強めた)。

そういう訳で、中国はこれまで権力分立とか民主主義が上手くいった歴史を持たない(昔から天皇と将軍、諸大名という風に分散型権力でやってきた歴史があるので、西欧流の「三権分立」制の導入に抵抗感がなかった日本は、中国と対照的だ)。

経済学には「径路依存」(Path Dependency)という概念がある。国や国民は自らが歩んできた歴史に左右されるという意味だが、「中国の民主化」はまさに、この径路依存が克服できるかという課題を抱えている。それは日本人に向かって「世界と外国人にためらいなく国を、胸襟を開け」と言うのと同じで、「簡単じゃない」のである。

もう一つ提起したい問題は「中国は振り子だ」論だ。バカの一つ覚えみたいな筆者の主張だが、最近「中国は振り子だ」と唱える人は他にもいることを知って心強く感じた(笑)

中国経済や体制移行論の学者、程暁農(Cheng Xiaonong)氏がその人で、「中共やソ連の政体は、個人集権と集団指導の間を振り子のように揺れ動く」という説を唱えている。

急激な工業化や軍隊建設を行うために国民に耐乏生活を迫り、党内の異論を封殺するために、個人崇拝や反対派の粛清を繰り返す個人集権の時代の後には、それがもたらした後遺症を癒し、政治の安定を図るために集団指導制が採られ、民心の安定を図るためにカネを使い、幹部の腐敗が蔓延する高コスト統治モデルが採用される。その弊害が深刻化すると、体制を救おうとする救世の英雄が個人集権を復活させる…

というのだ(中国再臨接班人之争?(中文))。

習近平はいまそれをやっている訳だが、この一、二年、正しい情報や諫言が耳に届かなくなり、部下たちの忖度が政策を極端に走らせるなど、個人集権をやると必ず生まれる弊害がかしこに散見され始めた。中国の振り子が再び向きを変える日が(「遠くない」とまで言わないが、)必ずやって来ることが見えるようになった。

振り子の向きが変われば、中国は再び西側価値観を否定しなくなり、市場経済に立ち返ろうとし、西側と同じではなくても「中国の特色」あるかたちで、「民主化する」だろう。兼原氏が「成熟した国民はかならず民主化する」と予言したのは間違いではなかったということになる。

しかし、それは恐らく「歴史の終わり」ではない。西側は「話が通じる中国が戻ってきたと喜ぶだろうが、同時に中国の内では、民主化や権力の分散を奇貨として党・政の腐敗が再び深刻化する。誰もが私利私欲に走る様を見ると、「このままでは国が滅ぶ」という危機感が募らせた誰かが登場して、中国を再び個人集権に向かわせる…中国が歴史的に辿ってきた「径路」を顧みると、今後もそんな道行きが続く、という見通しになる。

しかし、中国もここまで出世し、成熟してきたのだ。とくに若い人には、頭が良いだけでなく公徳心も備えた「善い子」がたくさんいる。その蓄積の上に、何とか径路依存の呪縛を打ち破って「現代中国2.0」を作り出してほしいのだが、やはりそれは「簡単じゃない」だろう。


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