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ポスト「ゼロ・コロナ」の中国の行方

「中国がゼロコロナをやめられない理由」と題する中島恵さんのコラムを読んでいて、ある気付きを得た。

中国がゼロ・コロナ政策に固執する理由として、世上言われているのは「習近平主席の偉大な業績、中国共産党の政策の正しさを示す証拠として、内外に喧伝してきた手前、今さら旗を降ろせない」といったものだ。
だが、党や政府の都合だけでなく、国民の間にもゼロ・コロナ政策を支持する声は今もあるという。

「気付きを得た」のは、支持する理由の一つとして「コロナと共存するには、国民全体にある程度の民度や知識があることが前提。残念ながら、まだこの国はそのレベルに達していない」という市民の声があると書かれていたからだ。

「高度に発達した上海でさえ、人々のコロナに対する意識や対策、考え方、常識などはあまりにもバラバラだと感じました。マンションごとに共同で食料を購入する制度を利用する際も、自分勝手な意見ばかりいう人が多くて、あきれました。もちろん助け合いも多いのですが、それはある程度以上のレベルの人によるものです」
「公衆衛生の認識もバラバラです。コロナ下でも、手も洗わない人が大勢いる。正しい感染対策を理解できない人もいるし、自分と身内、親しい友人以外はどうでもいいと思っている人もいる。こんな状態では、政府は(対応を)緩和できず、コスト高でも、14億の人すべてに厳しく対応せざるを得ない。」

「中国がゼロコロナをやめられない理由」

「民度」。中国語では「素質」と言うが、私が北京に住んでいた20年前には「民度が低い人が多すぎる」という「自虐的」な認識をよく聞いたものだ。
こんにちの「自信中国」では、死語になったと思っていたが、今回の上海ロックダウンのようなショッキングな出来事があると、「古層意識」が顔を覗かせるのだなあと感じ入った。
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話を元に戻して、中国共産党や政府がゼロコロナを止められない理由として世上言われている「業績を喧伝してきた手前、今さら旗を降ろせない」点についても、敷衍、補足したい。

中国共産党と政府は「我が国は上手くやった」と誇っただけではなく、さらに踏み込んだ。
昨年前半、欧米でコロナの行動抑制を緩和した結果、感染のリバウンドが起きたとき、「これは英米などの国の政治制度の欠陥が招いた感染防止対策の失敗であり、個人主義価値観を崇拝する必然の結果でもある」として、経済・社会への影響に配慮する「ウィズ・コロナ」の考え方をイデオロギー的視点からこき下ろしたのだ。

原衛生部部長高強:“与病毒共存”絶不可行!

米国は2年前、コロナ禍で数十万人が亡くなったり、大統領選挙の混乱で世界に醜態を晒したりした。それを目の当たりにした中国では「中国がいちばん優れている」「中国すげぇ」という空気が充満した。上記のこきおろしは、そんな世相の反映でもある。
あの時、自画自賛で止めておけば、今年「ウィルスの重大な変異が起きた」等々の理由を付けて、ゼロ・コロナを軌道修正する余地が未だあったと思うが、こんな理由でウィズ・コロナを全否定してしまった後では、それこそ「どの面下げて・・・」になる。

昔の「自虐」意識のぶり返し、ウィズ・コロナこき下ろしが招いた自縄自縛…2つのエピソードを通じて言えることは、2年前に湧き上がった「中国すげぇ」「中国がいちばん優れている」というユーフォリア(自己陶酔)は、どうやら修正期に入ったらしいということだ。
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そこからが本稿の本題だ。
この10年、習近平政権になってからの中国は自己主張が強まり、政治・経済も左旋回(マルクス・レーニン主義、ナショナリズム志向)が著しかった。
私はそんな中国の変化を「振り子のようなものだ」と捉えて、この「振れ」がどのような変数によって引き起こされるのか、いわばモデル化することを試みてきた。        

    振り子の振れz=f(x、y)

「振り子の振れは変数によって決まる」という風に(拙著「米中対立の先に待つもの」第7章ご参照)。ここで、

xは国家財政の懐具合。

中国は財政の懐が苦しくなると、国際協調的に、とくに経済政策が市場経済志向、改革志向になる。逆に懐が豊かになると、共産党のDNAに従ってマルクス・レーニン主義志向、ナショナリスティックになる。

yは、西側との心理的力関係。

今では考えられないだろうが、1990年代までの中国は「中国は後れたダメな国」という自虐意識が強く西洋崇拝だった。しかし、今世紀に入って中国が飛躍的に発展する傍らで、リーマン・ショックだのトランプ当選だの、西側先進国がダメッぷりをさらすようになったこの10年、15年、中国は西側先進国を「仰ぎ見る」ことをしなくなり、トランプ政権末期の米国に至っては「見くだす」ようにさえなった。上述した「中国すげぇ」のユーフォリアは、その意識と対になって生まれたものだ。

さて、こんなモデル化を試みたのは、変数x、yの今後を占うことによって、将来の中国の行方zを占うためだ。拙著は

1.財政の懐具合は、疑いなく窮乏化するので、中国が再び国際協調志向、改革志向に動いてもおかしくない
2.他方、心理的力関係は、2020年のユーフォリアで「西側諸国、とくに米国は落ち目の衰退国家だ」という「見くだし」意識が強まり、そこで生まれた傲慢で排外主義的なムードは当分変わらない
3.以上のように、変数の作用が相反するので、「中国の行方は右、左のどちらだ」と断言できる結果は得られなかった…

という書き方で終えたのだが、今年1月の脱稿の後に起きた変化を読み込むと、この結論にも修正が必要になったようだ。

1.  財政の窮乏状態は、昨年来の官製不動産不況やゼロコロナ政策の副作用によって、さらに加速しそうだ
2.  心理的力関係についても、上述したユーフォリア(傲慢な思い上がり)の修正が想像していたよりずっと早く起きつつある

ゼロコロナ政策が迷走を始めたことで、メディアの関心は秋に迫った第20回党大会で習近平主席がシナリオどおり三選されるかどうかに集まりつつあるが、もう少し巨視的に考えても、中国という振り子が振れ戻す、しかもその時期が早まる可能性が出てきた気がする。

ただ、楽観はできない。というのも、心理的力関係がほんとうに反転するためには、中国自身の思い上がりの修正だけでなく、西側、とくに米国が目下の国内分断を克服し、再び世界の尊敬を集めるような復活を遂げる必要があるからだ。
その日がいつ来るのか、ほんとうに来るのかは、まだ誰にも分からない。

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