「人は二度死ぬ」のか

「人は二度死ぬ」という言葉を聞いたことがある。
生き物としての命が終わる時と、人の記憶から消える時らしい。
これに対して私は、「人は徐々に亡くなる」と思っている。


数年前、母が亡くなった。本人の意向で葬儀はごく少人数で行ったので、コロナ禍の影響などでしばらく会っていなかった人や、亡くなる数ヶ月前までは定期的に会っていた人も、あまり実感が持てなかったと言っていた。


特に印象的だったのが、年賀状だ。

亡くなった年は当然喪中なので私達からは喪中ハガキしか送らないわけだが、母だけではなく家族ぐるみで交流のあった人には、その翌年からは母の名前だけが減った年賀状を出した。

そしてその後に、手紙が届いた。
年賀状に母の名がないのを見て、亡くなったという実感が湧いたという手紙だった。送り主は、母とは最近は会っていなかったらしいが、昔親しくしていた人だったらしい。とても丁寧で、綺麗な筆跡だったのを覚えている。

他の人からも同じようなことを言われた。
その人は、亡くなった後に仏壇に手を合わせにきてくれた方なのだが、年賀状に名前がないのを見て、改めて亡くなったことを実感して胸が締め付けられるような思いだったと打ち明けてくれた。


きっと、手紙をくれた人や、その人と同じように思った人たちにとって、母が亡くなった瞬間は年賀状の差出人欄を見たその時だったんじゃないかと思う。

とはいえ、記憶の中に生き続けるという感覚もある。
母を知る人と、「きっと今母がいたらこう言うだろう」と話す時、私たちの頭の中には母がいる。
一方で、「その人が生きていたらきっとこうするだろう」という考えは、その人がすでに亡くなった人であることの再確認でもあるのかもしれない。

しかし、そうした記憶もいつかは失われてしまうものだ。誰だっていつかは命が尽きてただの元素の塊に還る。そうして、亡くなった人のことを記憶する人がみんな亡くなったら、もう一度亡くなるのだと思う。

肉体としての死、周囲の死の受け入れ、記憶の消失。
こうして人の死は、緩やかに進んでいくのではないだろうか。


それと、年賀状というのは、かつて関わりのあった人や最近中々会えていない人たちに、年に一度想いを馳せる良い機会だと思う。
かくいう私は、高校を卒業して以来、古くからの知り合いしか年賀状のやり取りはしていないのだが、連絡くらいは取ってみようと思う。
それでいつか私の肉体が燃え尽きた後、旧友の誰かが私の死を認識して、私を思い出してくれたなら、それが誰であったとしても少しくらいは嬉しいのではないかと思う。


本当は12月中に載せるはずがすっかり忘れていました。うっかり。

#note書き初め

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