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夫婦断欒

特に変わったことない何気ない1日だった。
「ちょっと話があるんだけど。」
もうすぐ月曜日。短針が23時を指していた。オリンピックの柔道を見ていた。テレビを消し、ソファに腰掛けた妻に向き直る。いったい何だと言うのだろう。満輝は先月30歳を迎えてた。結婚5年目を迎え、阿吽の呼吸…とまではいかないがそこそこに意思疎通できる妻奈津子と昨年生まれた可愛い盛りの生後10ヶ月の息子行人の3人暮らし。

行人はもう寝ていた。ビールのプルタブに掛けた指をそっと引いた。
「どうしたの。」
努めて穏やかな声で尋ねた。
「最近、家にいる時間短くない?好きなこと諦めずに続けてって言ったけど、毎週末出掛けるのはどうなの?」
戸惑った。今日は朝5時に起きて行人の1週間分の離乳食と育休中の奈津子のための温めるだけの作り置きを1週間分準備した。合間に掃除と洗濯、草取りをした。行人にご飯を食べさせ、着替えをして家族3人でショッピングモールヘ出掛けた。
夕方帰って、行人をお風呂に入れて洗濯をし19時に家を出た。
高校の同級生とバスケットをしているのだ。21時に戻ってきて汗を流し、自分用の弁当を作って一息つこうとしたのだった。
「全然いないってわけじゃないと思うけど…」
「いないって。平日は仕事行ってるし、残業して帰って来るの19時過ぎ。毎週末日曜の夜はバスケ日曜行くし、家族の団欒をする気があるの?」
団欒?何を急に…と思った。
「団欒?」
「そう。自分のしたいことして家族で過ごす時間を蔑ろにしてると思う。特に私との会話が全くない。夫婦続ける気あるの?」
奈津子が続けた。
「バスケに行くのもさも当然って顔で行くのもイライラする。ありがとうとかないわけ?」
まだ続く。
「作り置きもやってって言ったわけじゃない。私はこだわりないから食パンだけでもいいし、ご飯と味噌汁があればいい。作り置きやり終えてやりきった〜って言われてもやらなくていいじゃんってイライラする。」
キラーパス。全く意図が読めずファンブルした。
夫婦の会話、家族の団欒、感謝の言葉…情報が多い。だが、疲れていた脳に一気に血が巡った。これまでの記憶が蘇った。それについては自分にも言いたいことが山程ある。家庭を顧みない奴なんてレッテルを貼られるのは我慢ならなかった。
そう思っていたら思ったより低く冷たい声が出た。
「要するに話は3つだね。」
整理したいと思い要点を絞った。
「まずは会話だけど、結婚する前からちゃんと話をしてほしいって言ってきたよね。俺が帰って来てから仕事の話、通勤中に聞いたラジオの話、部長の面白エピソードとか話しても生返事か無視か背を向けて頷くだけか…じゃん。そんなの4年も5年も続いたらどう?話す気無くならない?自分の時間欲しさに話す時間を削ったのではてなく奈津子が話す意欲そのものを削ったんだよ。」
結婚4年目?5年目?どっちだっけ…変なところで悩んでしまった。
奈津子はじっとこっちを見て黙っている。どうして言い返されているのか納得いかないようだ。
「それに2人目を作る気無いなら一生恨むからって言ったじゃん。恨まれてる相手と談笑は難しいよ。」
半月前、2人目が欲しいと打診されていた。1人目だけでこれだけ手一杯なのに難しい。家事、仕事、育児。健やかにそれらをこなすには自分の時間もほしい。だから、断ったのだ。そもそも奈津子が1人目も作る気がないということを結婚条件としていた。
「えーっと、次に家にいないってことだけど…いなくてもいいって言ったよね。それに平日仕事に行っていることも家にいないってカウントにされてもどうにもならないよね。残業だってどうしてもってこともあるし。週末も家事も育児もやった上で日曜日の夜2時間バスケしてる。3ヶ月に1回飲みに行くのもだめなの?帰ってきて行人の風呂と寝かしつけと洗濯と次の日のご飯の支度と…やっと座るの22時それでも週末に気晴らししちゃだめなの?」
奈津子は超インドア派。外に飲みに行くのも嫌いだし、友達と会って話したいという欲もほとんどない。出かけられる日ももちろんある。しかし、彼女は家で過ごすことを選ぶ。
出かけてくれたら食事の支度が減るからありがたいのだが…。
我が家は俺が食事、掃除、買い出し、洗濯、ゴミ捨て、洗い物をする。奈津子が風呂掃除と洗面所の掃除、家計簿を書くをする。俺が行人とお風呂に入ってから奈津子の番だから風呂掃除はどうしても彼女の役目になってしまう。
「バスケにも飲みに行くのも行って当然みたいな空気出して行くのが気に入らない。行かせてくれてありがとうって言葉にしたり、少しは私との時間を作ろうとしたりしないわけ?」
かなり感情的になってきた奈津子を前に1℃2℃と自分の気持ちが冷えて行くのを感じた。
「そのありがとうがないってよくわからないんだけど、「ごめんちょっとバスケしてくるね」とか「行人のことお願い」とか帰ってきて「ありがとう。いい運動だったよ」じゃ奈津子の欲する言葉じゃなかったんだね。」
また黙ってしまった。秒針が時を刻む音だけが聞こえる。寝室で行人がうなった。
立ち上がり様子を見に行く。寝返りに失敗して声が出たようだ。頭と足が寝かせたときから180度…反転している。
起きていないことに安堵してリビングに戻る。
「3つ目作り置きに関しては…ごめん。もうやらないよ。食べることが負担だったんだね。」
よく分からない解答をしてしまった。だんだん面倒くさくなってきた。
「ありがとうは言われたことないよ。何をしてもね。それなのに自分に対して言ってくれないと気に入らないは筋通らないよね。自分は感謝されることをしている。お前がやっていることは当たり前だから感謝しない。ってことか。」
「そうじゃないけど。」
奈津子が言い淀む。
「団欒って自然と生まれるものもだと思うんだけど、どちらかが労われることなくしかし相手を労いながら働いく。しかもその相手には恨まれている。そんな中で団欒なぞ生まれないと思うよ。」
奈津子は黙ったままだ。カチリ。
長針と短針が重なった。ようこそ月曜日。さらば日曜日。
ようやく重い口を開く。
「じゃあ、私が悪いってことだね」
鼻をすする音がかすかにリビングにこだまする。
彼女は泣いていた。
言い過ぎたかなという心配より、なぜ被害者然とした振る舞いなのだろうか。
「もう、私のこと好きでもないし、なんとかしようって気もないんだね」
どうして俺が加害者になっているのか…彼女自身が変わろうとかないのだなと感じた。
「俺にできることは、バスケに行く回数を減らすこと、どんなに無視されても塩対応でもラジオになりきること、作り置きをやめることだと思うんだけどどう?」
「そういうことじゃない。今までやってきたことをやめさせるのは我慢させてるみたいでイヤ」
「…」
言葉を失った。これはまさに八方塞り。
「……」
もう我が家に温かな団欒は訪れないだろう。

夫婦はどこまで行っても他人。どちらかが隷属しているわけではない。言葉でも行動ででも塩対応が続けば何かしてあげたいという思いは消える。柔らかな対応もする気が失せる。


断欒

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