休む勇気がほしいとき
適応障害になって、改めて「理解されなくて当たり前」ということを考えるようになりました。
今は昔ほど偏見の目は減ったかとは思いますが、それでもやはり完璧には理解されない現実は変わりません。
会社や学校など、これらのコミュニティーは個人のペースに合わせられるほどのんびりとしたものではないので、当たり前といえば当たり前です。
世の中には車椅子で暮らしている人もたくさんいますし、点字を頼りに文字を理解する人もいます。
そういった方々に負けないようにしても、どうしても心が折れてしまい、なかなか前を向くことができません。
のんびりと生活することができない
焦りの気持ちをどうしても抑えることができず、なかなかのんびりとした生活を送ることができません。
休職せずに治そうと今のところ考えてはいますが、集中力や注意力、そして体力が以前に比べてかなり落ちていることもあり、どんどん自信がなくなっています。
休日も「なにかやらないとだめになるんじゃ…」みたいな焦りから、治療に効果的な「のんびりと過ごす」こともできず、ますます自分を責めてしまっています。
勇気を持って休まないといけないのに、小さなプライドや見栄が邪魔をしてしまい、なかなか行動に移すことができません。
何が足りないのか、何がしたいのかもわからない迷路にハマってしまったようで、いつも得体のしれない「なにか」に追われているような感覚です。
何者にもならない勇気
仕事もできない、特別な才能も持っていない自分は、おそらくたいしたこともできずに残りの人生を終わっていくような気がします。
自分なりに努力はしているものの、一般の方と比べたらほとんど努力していないことと変わらないような量なので、認められることはないのかなと思います。
ただ、冷静に考えると、世の中のほとんどの人は何らかの悩みを持っているんですよね。
自分と同じように仕事や体調、お金のことで悩んでいる人は大勢いるはずです。
それに、このままずっと暗闇の時間が続くと決まっているものではないはず。
今はしんどい思いをしていても、数ヶ月後、数年後にはもしかしたら回復しているかもしれません。
いじめやパワハラ上司など、これまでいろいろな問題に悩まされてきましたが、環境が変わり、昔ほど悩むことは少なくなりました。
メンタルが落ち込んでいるときは、ついつい将来を悲観して考えがちになってしまいます。
だからこそ昔の自分を思い出し、「この問題もいつか解決するよね」といった少し軽い気持ちで向き合っていく必要があるんですよね。
休むことも勇気はいりますが、休むことでしか手に入らないものありますので、自分に優しくしながら、きちんと今の自分と向き合っていこうと思います。
平凡でもかまわない。
どんな自分でも、自分ですからね。
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