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インタビュー調査<水野泰志氏>

 1954年、水野泰志氏は名古屋に生まれた。地元の旭丘高校を経て、1974年に早稲田大学に入学する。元来政治に興味があり、どのようにして政治の世界に関わろうかと考え、政治記者を志し、馴染みのあった『中日新聞』の試験を受けた。
 1979年に中日新聞社に入社、浜松支局へ配属。「先生は他社のベテラン記者」だったという。1980年に『東京新聞』整理部に異動。次いで名古屋本社整理部を経て、1985年に『東京新聞』政治部に異動。総理番や野党を担当した後、三年目に自民党清和会担当の派閥記者となる。1987年に中曽根康弘首相が竹下登幹事長を後継指名した中曽根裁定では、安倍晋太郎総務会長との問わず語りから政局を読んで間違いのない紙面づくりに貢献できたことが印象に残っているという。海部俊樹首相の南西アジア歴訪に同行した時は、ほぼ毎日徹夜だったがどうにか乗り切り、体力・気力に自信を持てるようになったという。入社して10年あたりで、ようやく「新聞記者として、仕事を続けていけるかな」と自認できるようになったそうだ。
 1990年の湾岸戦争に際しては、社会党代表団に紛れてバグダットに赴き、特派員として記事を送った。1996年に政治部から経済部に異動した後、1999年にメディア・IT担当の編集委員となり、20年程務めた。その間に『中日新聞』『東京新聞』のネット版の立ち上げに関わった。2005年の愛知万博においては、万博協会情報通信部門の総編集長を務めた。その際、最先端のコンテンツ作りに携わった経験からデジタル時代への対応を訴えたが、社内の理解はなかなか得られなかった。
 2020年に中日新聞社を退社後、メディア激動研究所を設立し、交流の深かった記者たちと共に、ネットや雑誌で記事を執筆している。新聞業界の現在については、「全国紙がブロック紙化して、ブロック紙は地方紙化した」と断言。これからは、生成AIとジャーナリズムの関係が焦点になり、「インフォメーション・ヘルス(精神的健康)」が重要になると語った。

主担当:昆野