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インタビュー調査<山谷賢量氏>

   1947年北海道釧路管内厚岸郡尾幌村生まれの山谷賢量氏は、釧路江南高校を卒業した後、開学当初の札幌大学外国語学部ロシア語科に入学する。大学在学中に70年安保闘争があったが、デモ運動には参加したことはあるがゲバ棒は振るわなかった。新聞に元々関心があったことや、大学時代の高崎徹先生が元『小樽新聞』(現『北海道新聞』)の記者だったことから影響を受け、1971年に北海道新聞社に入社する。
   ペレストロイカ時代の1987年に自ら希望しモスクワ特派員になった。北方領土問題を始め、漁船の拿捕や北海道周辺のことなどに関心を寄せ、三年間で千本を超える記事を書いたという。
   1989年春、第二次世界大戦後、日本人記者として初めて北方領土、国後島に入った。北方領土の現状を見たいという想いから半年以上の労力をかけて達成したという。「戦前は日本領で、その後長く未知の領域となっていた北方領土に入り、その現実を報道するのはマスコミの使命であり権利だと思う。」と述べ、北方領土取材は功罪両面あったけれど、「政府が入っちゃいかん、というから入らないでは必ずしも地元紙としての使命、責任は果たせないと思う。時と場合によっては、国の規制の枠を超える取材はあってしかるべきだと個人的には思います。」と主張した。
   1990年に帰国したが、ソ連崩壊後の1993年から95年まで、二度目のモスクワ特派員になり、社会の秩序の変化を目のあたりにした。93年の10月のモスクワ騒乱事件に遭遇し、印象に残る事件だったと語る。
   帰国後、札幌本社整理委員、東京支社外報部長、そして東京支社論説委員や東京支社論説副主幹も歴任後、2004年に釧路支社長となり、2007年から北海道文化放送常務監査役を務めた。「全国紙や県紙レベルでは報じない、その狭間の所まできめ細かにカバーできるのがブロック紙の強み」だと語った。

主担当:川村