見出し画像

インタビュー調査<村田正敏氏>

 1948年、村田正敏氏は北海道の中標津町にて生まれる。人より牛が多いこの町で、村田氏は獣医の父の姿を見て育った。中標津高校を卒業後、東京での大学生活に憧れ、立教大学へと進学する。大学卒業後は、「地元に戻って社会に関わりたい」という思いから『道新』を志望した。
 1971年に北海道新聞に入社、江別支局へ配属され、そこで全ての記者の基礎を学んだ。三人支局で紙面を埋めるために、「馬に食わせる位の原稿量」を書いたと言う。1975年に本社社会部に配属。最も印象深い事件となった北海道庁爆破事件に遭遇。事件解決にとってきわめて重要な犯行声明文の証拠の写真を撮影することに成功し、大スクープを掴んだ。社会部でのサツ回りは後々の取材にも役立ったという。なぜなら「ニュースの大部分は人によってもたらされる」からだと語った。
 1981年には東京支社の編集局政治経済部に異動。当時弱小派閥だった中曽根派を担当。中曽根内閣が成立した後も長い付き合いとなる。初外遊で全斗煥大統領と会談した時、晩餐会後に両首脳が歌った歌について、記者という存在は「歴史の証人になりえる」と感じた。同日に中川議員自殺のスクープが入り、忘れられない日になったという。2002年広告局に異動して営業のノウハウを学んだ後、2003年に東京支社長となる。次いで取締役経営企画室長、常務取締役広告局長を経て、2010年に第11代社長に就任する。その翌年に起きた東日本大震災では社員の避難などの判断と対応に追われた。同時に災害対策の基本方針として、非常用電源として自家発電機を設置するなどの将来への布石を打った。
 この経験を生かし、新聞協会全体での災害対策ネットワークを構築し、これを契機とした新聞各社の「競争と協調の時代」を提唱した。

主担当:昆野