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インタビュー調査<尾崎行雄氏>

 1950年に生まれた尾崎行雄氏は、早稲田大学社会科学部に入学。自治会役員をしながら学生運動に精を出した。『東京新聞』のアルバイトをしていた時に誘われて試験を受け、1977年27歳の時に入社。埼玉支局に配属され、デスクの指導を受けながら記事の書き方を覚えた。三年後、横浜支局へ異動、富士見産婦人科事件の取材を担当した。釣り船と潜水艦が衝突し20名が死亡したなだしお事件の取材も担当。あまりに緊迫した状況で、当時を「悪戦苦闘で、何やったか覚えてません」と振り返る。
 1991年に北陸本社の報道部県政キャップに就任すると、経済部長と兼任する形で、県政にかかわる原稿の取りまとめ以外にもテレビの取材や講演会など、多くの場所で活躍した。北陸本社で四年間勤めた後、1995年にサリン事件が発生した際は、東京本社社会部警視庁キャップとして坂本弁護士一家殺害事件を対象に取材を進めた。夜討ち朝駆けの、睡眠時間も確保できない生活だったという。
 1998年には立川支局長、翌年には川崎支局長をそれぞれ務める。支局員の取りまとめや人事など多岐にわたる仕事をこなした。2002年からは北陸本社経済部長となり、北陸銀行と北海道銀行の合併の取材等に携わった。2006年には東京本社編集局編集委員に異動。2007年には静岡総局長に就任。多くの職場、役職を経験してきた中で、人と話すこと、コミュニケーションをとることを大事にしてきたと語った。
 今後の新聞については、「これからの社会はどうなるのかという見通しを示さなきゃ生き残れない」と主張する。ブロック紙は、ブロック紙同士の関係性を見直したり、役割を特化しないといけないと言う。政官の不正を見張る番犬というのは、記者の使命ではなく、「話さないと記者じゃないじゃん?」と、人とコミュニケーションを取り、巻き込んでいくのが記者の仕事だと語った。

主担当:福岡