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インタビュー調査<児玉芳明氏>

   1937年生まれの児玉芳明氏は、1943年に石川県への縁故疎開を経験した。1944年の春には横浜へ戻り、そこで終戦を迎えた。関東学院高校時代から新聞づくりの活動をし、中央大学法学部に入学すると、『中央大学新聞』を作る新聞学会に所属し、砂川基地反対闘争などの安保闘争前段階の闘争を取材した。1959年大学を卒業、当時先進的だった北海道新聞社に入社した。この年にはちょうど『朝日』、『毎日』、『読売』が札幌で印刷を始め、『道新』ではそれを迎え撃つために新人が多数採用された。
 最初に配属された旭川支社では主にサツ回りを担当、『北海タイムス』と競いながら六年間を過ごした。1965年に本社社会部へ異動。炭鉱事故、航空機事故、海難事故を数多く取材し、炭鉱事故、航空機事故取材マニュアルの作成まで行った。1970年に東京支社編集局政治経済部へ異動。中川一郎議員や鈴木宗男議員(当時、中川議員秘書)と親交を深めた。組合の東京の中央執行委員を経て、1972年3月から東京社会部へ。
 1978年10月、ロッキード事件の渦中にあった田中角栄首相に「ロッキード事件公判中の被告として、鄧小平氏を迎え入れることをどう思うか」と厳しい質問をぶつけ、「どこの社だ!」と怒鳴り上げられ、「私は『北海道新聞』です」と答えた様子が全国のテレビや週刊誌で話題になった。「それを聞いた若い人で『道新』に入社した人が相当いるんだ」という。
 1979年4月札幌本社社会部のデスクを務めた後、1986年『道新スポーツ』東京編集部長となる。1987年外報部に異動。フィリピン女性のための人権保護団体SPRを立ち上げる。翌年本社編集局で経済スペシャル編集長を務めた後、ワシントン支局長。メリーランド大学所蔵プランゲ文庫の北海道関係出版物を調べて紹介した。1991年東京支社編集局長、翌年旭川支社長、1994年に札幌本社の出版局長となった。1995年に『道新スポーツ』の五代目社長に就任。競馬の情報紙である『馬事通信』や『週刊釣り新聞ほっかいどう』を創刊し『道新スポーツ』本紙の売り上げをサポートした。
 その後もサッカーJリーグ・コンサドーレ札幌の社長を務めるなど、幅広い分野で活躍した児玉氏は、地方紙・ブロック紙の記者は全国紙の記者と比べて読者とより近い所にいるので、「自分の肉声で人と話し、自分の耳で聞いて、個人的な感性の中から流れを読み取るというのが、ジャーナリストじゃないかな」と語った。

主担当:彦由