弱者の視点に立った想像力を持つ

高校生の時に学校の奉仕活動の一環で、大阪のあいりん地区(釜ヶ崎)の夜回りに参加したことがあります。あいりん地区はいわゆる「ドヤ街」で、日雇い労働者(”おっちゃんたち”)が多く住む地域です。路上生活者も多く居住しています。私が参加した夜回りでは、その路上生活者の方々におにぎりや味噌汁を配ったり、コンクリートに直接寝ている方を起こして敷いてもらう用のダンボールを渡したりして回っていました(※1)。

歩いて回っておにぎりなどを渡して回る際、その日の奉仕だけに参加している私たちがおっちゃんたちの話を深く聞くようなことはしません。が、時々おっちゃんたちの方から話をしてくれたり、また、他の参加者の人から「こういう話を聞いた」というようなことを聞いたことがあります。それらを聞くと、「なぜおっちゃんらが日雇い労働をせざるを得なくなってしまったか」といったことや「路上生活をせざるを得ないおっちゃんがなぜ抜け出せないか」ということを知ることが出来ます。少なくとも誤解してはいけないことは、おっちゃんらの多くは望んで路上生活を選択しているわけではないということです。

また、釜ヶ崎の路上にあるおっちゃんの住処には、その作りが非常に立派なものがあったりします。単なるダンボールで覆ったものではなく、どこかから集めてきた木材を合わせて屋根がきちんとついていたり、床を底上げして快適に寝られるようにされてあったりしたものがあります。おそらく、そこに住むおっちゃんは、建築関係のエリートだった方でしょう。家の設計ができるスキルと知識を持っているはずです。知識やスキルを持っていても路上生活を強いられることも発生し得る、という現状も釜ヶ崎を歩いていると見ることが出来ます。そこから見えてくるのは、自分もおっちゃんたちのように路上生活者になってしまう可能性はゼロではないなということです。

釜ヶ崎のおっちゃんらの仕事は道路工事などの社会のインフラに関わる過酷な仕事をしています。しかしながら、その仕事の量は社会情勢によって左右されるものです。高度経済成長期からバブル崩壊までは、おっちゃんらの仕事もたくさんあったようです。しかし、バブル崩壊後、失われた10年を経て、日雇い労働の求人は激減したようです。また、高齢化により、インフラ工事のような仕事に就けなくなってしまったおっちゃんもいます。私たちの生活を便利にしてくれる、今となっては無しでは考えられない道路や橋をつくってくれたのはおっちゃんたちですが、社会情勢によって真っ先に切り捨てられるのもまたおっちゃんたちなのです。

さて、TVやネット上で見かける言説で最近は自己責任論的なものが多く見られるように思います。要は、「お前が困っているのはお前のせいなんだから、自力でなんとかしろ。そこに他の人や社会に助けを求めるのはおかしい。」と言ったものです。程度や内容は場合によりけりですが、私がそのような言説を見るに感じるのは、そういった発言をする人たちには想像力が足りないな、ということです。特に、弱者の視点に立った想像です。

先ほども述べましたが、釜ヶ崎のおっちゃんたちのような生活を私がせざるを得ない状況になってしまうことは、到底ありえない話ではないのです。明日、会社が潰れてしまうかもしれない、自然災害が起こって家がなくなってしまうかもしれない・・・でも生きていくためにせざるを得ないことをしてなんとか生きていく生活になるかもしれない。そういった想像力が働くなってしまったらいけないんやと思っています。自分が貧困に陥ってしまったとき、しかも、それが自分のせいではなく社会の動きや歪みによって強いられてしまったとき、「それは自己責任だ」と吐き捨てられるような社会になってほしいでしょうか?イベントや観光客誘致のため、また景観を良くするためという名目で、公園や河川敷にいる路上生活者を行政が排除するといったニュースを見かけることもあります。果たしてそれは「どけられて当たり前」なのでしょうか?少なくとも、日雇い労働者の問題だけでも、一筋縄にはいかない、皆で知恵を出し合って考えていかねばならない問題であると思います。

ではでは。

(※1)冬だったのでそのまま寝てしまうと凍死してしまうためです。実際、路上でコンクリートの上に直接寝て凍死してしまう方は結構いらっしゃるようです。

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