「仕事」と「稼ぎ」のちがい

「昔、島の人たちは仕事はしていたけれど、稼ぎはなかった。」

この言葉を聞いたとき、
私は今まで感じていた働き方や生き方への疑問と
自分が目指したい方向性がすっと見えてくるような感覚が沸き起こり、
思わず「やっぱりそうか」と口にしていた。

仕事と稼ぎの違いとは、どういうことか。

お金のため仕事

現代において、仕事というと
「人にモノやサービスを提供して、その対価としてお金を得ること」
と思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

だから、お金にならない家事は仕事と見なされず
家事=時間や手間がかかるものとなり、
電化製品や家事を代行するサービスの発達により
どんどん外注化がすすんできた。

その結果、私たちの暮らしは便利で楽になった。
お米や野菜は自分でつくらなくてもお店に行けばいつだって並んでいる。
料理する時間がなければ外食や弁当、お惣菜で済ませることができる。
着るものは流行を抑えたものが安価に手に入る。
住まいはお金を払えば修理・維持できるので、
わざわざ自分で手を動かす必要もない。

産業革命によって輸送が発達し、
人もモノも自由に行き来できるようになり、
電気のおかげで時間や天候にかかわらず、
24時間365日活動できるようになった。

そのおかげで、私たちの暮らしは便利で豊かになった・・・はずだった。
便利になれば、時間ができる・・・はずだった。

しかし実際は、便利になればなるほど、
暮らしそのものにお金がかかるようになり、
便利な暮らしを維持するためにはお金を稼ぐ必要があった。
お金を稼ぐために、
自分の持っている時間と労力を切り売りして提供する・・・

こうして、家事を外注化することによって浮いた時間は減り、
お金のために働く中でストレスは増え、
ストレスを発散するかのようにお金と時間をさらに消費するようになった。

「お金がなくなったら生きていけるだろうか」という
漠然とした不安は常につきまとい、拭いきることはできない・・・
そんな世の中になってはいないだろうか。
(少なくとも、私自身はそんな風に感じている。)

暮らしの営みとしての仕事

昔の人たちにとって、仕事とはどのようなものだったのだろうか。
島の人たちは、稼ぎに出ていなかった。
島の外に稼ぎに出なくても、島の中で暮らしが成り立っていた。

もちろん島の中でも物の売り買いやサービスの提供はあっただろう。
でも、そのベースには 衣食住を自分たちの手でつくる
「暮らしの営み」そのものが仕事としてあったのではないか。

そして、暮らしの営みから派生した「余剰」、
つまり「おすそ分け」が生業(ナリワイ)につながっていったのだと思う。
たとえば、
米や野菜をつくっていたら、食べ切れない分を人に売ったり、
服をつくるのが得意で、人の分もつくるようになったり、
大工仕事が得意で、人から頼まれるようになったり・・・

暮らしの営みそのものが仕事であり、
その中で自分が産み出したモノや身に付けたスキルが生業につながっていく。
そんな暮らしだったのではないだろうか。

暮らしの営み自体には、実はお金はそれほどかからない。
家事を外注化しなくて済むから、モノやサービスに支払うお金は最小限で済む。
時間と労力を切り売りする必要がないから、時間はたっぷりある。
暮らしの中から遊びを見出せば、お金をかけずとも楽しめる。

自分の暮らしが充実すればするほど
心は満たされ、人生は豊かになり、
自分のスキルが上がれば上がるほど
人に提供できるモノやサービスが増え、経済的にも豊かになれる。

自分で何かを産み出すことができるというのは、
「お金がなくなっても、なんとかなる」という
安心感にもつながる。

大地や人とつながることでどこからともなく湧いてくる、
根拠のない自信や信頼、安心。
これこそが、便利で楽な暮らしと引き換えに
失われてしまったものではないだろうか。

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