THE FIRST SLAM DUNKを観た

※ブログ記事の転載です。

12月8日、『THE FIRST SLAMDUNK』を観てきた!
いまの仕事になってから月2くらいで映画館にいけるようになって、とても幸福だ。以前はこの位置に観劇がきていたわけで、よく通ってたときの頻度はいまの映画よりちょっと少ないくらいで、観劇は映画の10倍はお金を使うことを考えると、いまもむかしもビンボーなのにどうしてそんなことが可能だったのか、というか、けっきょくいまはさらにお金を使う場所が増えているということなのかなとか、いろいろおもうところはあるが、ともかく休みの日にどこか出かけるかとなって、まず映画が出てくるという日々は、幸福以外のなにものでもない。この日々は5月のシン・ウルトラマンがからはじまったようで、ドラゴンボール、運命のミニオンズ、ジュラシックワールド(前回素で忘れていた)、NOPE、ブレットトレイン、“それ”がいる森、犯罪都市の第2弾、などを見ていった。この2週間くらいのあいだはブラックパンサーとザ・メニュー、ブラックアダムにスラムダンクという感じで、なんだろう、いまあまり小説を読めていなくて、物語不足のいつもの感じがほんらい出てきてもいいところなのにそれがないのは、映画で備給しているということなのかなという感じだ。これまでの習慣では、このようにして鑑賞したものは必ず記事にしてきたが、今年はほとんどやらずにきた。というのは、読書にかんしても実はそうで、読み終えたが記事にしていないものがいくつかある。ぼくは、一種のトレーニングとして、おもしろかったかどうかにかかわらず、読んだものについて必ず一定水準以上の記事を書くということをしてきたのだが、それがもともとの遅読をさらにパワフルなものにしてきたことはまちがいなかったのである。ちゃんと読まないとちゃんとした記事は書けないので。それはそれで大きな成果をもたらしたとはおもうが、直観的にそろそろ乱読的な、無作為のインプットの時期がきてもいいんじゃないかなとはおもっていたのである。ずっとそれができなくて(つまり、“書かない”を選ぶことができなくて)苦労してきたが、今年はそれがかなりスムーズにできた。それも映画のおかげだとおもう。まあ、宝塚は、同じくらいのペースでみて、ぜんぶ書いていたわけなのだが・・・。

 
 

さて、伏せられていた声優の出演者がもとのアニメとまったくちがっていたことなど、はじまる前から賛否両論だったスラムダンクである。特にあっと驚く展開があるものでもないので、ネタバレもなにもないような気がするのだが、公式はくわしく語らずに宣伝をしているようなので、問題ないとはおもいつつも、本記事でも以下よりはじめて内容に触れていくこととする。

 
 
 
 
 
 


【スラムダンク体験】


ぼくのスラムダンク体験は、実はつい最近のことだ。十数年前、書店員になってコミック担当になったとき、一種の教養として、スラムダンクも読んでいないようではどうしようもないというふうに考えて読んだのである。スラムダンクが少年ジャンプで連載していた当時は小学生、ぼくの家庭は漫画を読んではいけません的なところだったのだが、ジャンプだけは許されていて、買っていた。しかし、なぜだかスラムダンクだけは読んでいなかったことをよく覚えている。いまでもそうだが、スポーツ漫画にアレルギーがあるのかもしれない。読みきりまで毎週なめるように読んでいたのに、スラムダンクだけ、選択的に読んでいなかったのだ。不思議なものである。
書店員になり、すぐさまおもしろさに開眼したかというとほんとうはそういうこともなく、5巻くらいまで読んでしばらくとまっていたことを覚えている。だが、花道がリバウンドをとれるようになったりして、試合らしい試合が成立するようになってからのおもしろさは尋常ではない。そして、ピークはぼくにとってもやはり最後の山王戦だった。なにしろ、山王戦が好きすぎて、相方の家に全巻そろえている以外に、最後の5、6巻手元に置いておけるように改めて買いなおしたくらいである。そして読み始めたらぜったい最後まで読んでしまう。赤木、三井、宮城、流川、桜木、それに木暮の、それまでの語られてきた細かな物語がある一点に向けて収束していくそのさまは、漫画的体験としてはほとんど究極といってもいいとおもう。いや、漫画的体験などと断る理由もない。特に山王戦は、ありとあらゆる物語体験のうちで、これ以上削るものもなく不足するものもない、完璧に彫琢された絶対知的完成度の試合なのである。
この山王戦が、この映画では描かれた。いま書いたように、山王戦にほとばしる「物語の喜び」のようなものは、それまでの蓄積があってこそのものだ。赤木がいままでかなり苦しいおもいで「全国制覇」という無謀な夢を抱いてきたこと、木暮がそれについてきてくれたこと、三井の後悔と反省、桜木が愚かしさと純粋さのまがりくねった道を豪速で駆け抜けて手に入れてきたもろもろ、こういうことを知ったうえでのあのリバウンド、河田や沢北の克服、負傷、一年生どうしのパスなのである。それがわかっていたから、はじまる前からどこかで山王戦をやるらしいと知ったとき、大丈夫なのかとおもったことは否定しない。だがそれは杞憂に終わった。おもえばぼくはアベンジャーズも特別アイアンマンなどを研究せずにいきなり観て感動した経験をしているのである。単独でじゅうぶんにおもしろくなるよう、細かいところを言い出すときりがないほど多くの工夫をこらして、本作は見事に結ばれているのだ。その結果として(あとで述べるように、それだけが理由ではない)本作ではかなり削られている箇所もあるが、それらはたいがい、そこに至るまでの道程を熟知しているものにだけ意味がわかるような描写かもしれない。それでも、なるべく削らないようにしているように感じられた。たとえば、湘北の2年にはヤスという男がいるが、一瞬、ヤスがひとりで画面を抜かれるところがある。この映画だけがスラムダンク体験であるというひとにとっては素通りしてよい、ほんの一瞬の場面だが、ヤスファンにはうれしい大画面のはずである。これに関連するところで、本作ではギャグ要素がかなり抑えられているが、それでも、三井、宮城、桜木がならんでガッツポーズ的なことをする場面が、遠目で描かれたりもしていた。展開上不要になる、この映画においては不用意な挿入になりかねないそういうものを、可能な限りねじこもうとしている感じを、ぼくはこういうところから受け取った。

【試合のリアリティ、ギャグ・恋愛要素の縮小】


なにしろ本作はバスケ描写に圧倒的に優れている。これは監督もつとめた井上先生の強い希望で実現したものだ。アニメーションの知識もバスケの知識もないので、拙い表現になることを許していただきたいが、本作はCGによる運動表現に満ちており、正直いうと当初はその感じが違和感になってしまわないか心配でもあった。だが、観てみれば見事というほかない仕上がりなのである。それどころか、ついに、現代の技術は、井上先生が漫画で表現していた試合を、映像で表現することができるようになったのだなというものなのである。とりわけ遠景である。遠く引いたカメラ位置でコートを描く際、試合をしている10人が、おのおのの判断のもとに、ガードしたり攻めたりしている、そういう、極めてポリフォニックなスポーツの現場が、展開というモノローグに回収されないまま、つまりそれぞれの自律性を確保したまま、保存されているのである。じっさいにバスケの試合を見たことはないが、それでもこれには感動しないわけにはいかなかった。そして、これが井上先生の目指したものだったのだなというふうに理解したのである。
 
このこと、つまり、本作を観ていて訪れた感動が「遠景からの卓越した描写」にあることを理解するとともに、同時に感じていたものの正体も見えてくるようになった。それは、少し書いたように、ギャグと恋愛要素の抑制である。ギャグについては、パンフレットのインタビューを見るとわかるように、漫画表現であればこそのぶぶんもあったようで、映画では難しいというふうになって削除されたところもあるようである。だがぼくには、これは試合のリアリズムを徹底的に探究した結果のようにおもわれた。ギャグが抑制されているといっても、たとえば桜木は山王のことをヤマオーというし、ゴリは桜木に拳骨をくらわせたりはする。だがそこで、タンコブがプクーと膨れ上がったりはしないし、あの、なんというのか、目とか鼻が小さくなるギャグ絵になるようなことはない。シリアス絵のあのまま、桜木は拳骨を痛がるのである。同様にして、花道とハルコ、もしくはハルコと流川の恋愛(というかたんに“好き”という感情があるという事実)、また宮城とアヤコさんの関係性は、ほとんど描かれない。あとで書くが、本作は宮城が主人公となっており、そのぶん、アヤコさんとのやりとりは少しあるが、恋愛というほどかというとそうでもない。スラムダンクで恋愛は初期衝動にはなるが、原動力にはならない。とまで断言するのはおかしいが(原作の宮城などはそういうこともないかもしれない)、花道などは特にそういうぶぶんがあるとおもう。
なぜこうした要素が抑制されたかというと、抑制しようとしてそうなったというより、試合のリアリズムを探究した結果として、少年漫画的な含み、非現実的なギャグ描写や試合の前段階たる恋愛要素が除かれたということなのではないかとおもわれたわけなのだ。

【桜木花道の微妙な変質】


そして、このこと、特にギャグが抑制されていることが、もうひとつの状況を呼んでいるとぼくは推測する。それは桜木花道のキャラクター、特に声質である。本作で桜木の声を担当するのはジャイアンで有名な木村昴である。たしかに、声質としては、以前のかたにも通じるものがあり、桜木らしいといえばそうだろう。じっさい、ぼくは宣伝を見ていたときから、みんながいうほど不用意なキャスティングではないんじゃないかなとおもっていた。しかし、映画を観てみると、逆にそこには、新たな桜木像とでもいうか、キャラクターの変質を感じ取ることができたのである。それがギャグ要素の抑制と連なっているのである。木村氏の桜木は、あのニャーニャーいう感じの幼さがあまりない。いってみれば、粗暴な雰囲気はじゅうぶん残しつつも、ちょっと知的なのだ。これも、井上先生や木村氏の解釈というより、本作が試合のリアリズムを探究し、ギャグを抑制した結果なのではないか、というのがぼくの考えである。要するに、わかりやすくいうと、ゴリに殴られてタンコブがプクーする桜木としない桜木では、声も当然変わるのである。

 

【ポイントガードが主人公であるということ】



さて、そうしたバスケ表現に支えられた試合展開が、じっさいにはなにを描いているのかというと、ポイントガード・宮城リョータの内面であり、過去であり、つまり背景であった。井上先生的には、新しく映画をつくるならいままでになかったスラムダンクを、という意図があったそうである。強いドラマのある赤木や三井、主人公もしくは主人公格としてライバルどうしでもある桜木と流川のあいだにいて、宮城はいかにも脇役だったかもしれない。非常に魅力的なキャラクターであることはまちがいないにしても、物語を牽引するタイプではなかったのだ。じっさい、原作初読の時点での宮城は、実力はあるがまとまって仕事をすることができないチームをパスで支える技術面での大黒柱であって、いちばん大人な感じのする人物だった。なんだろう、うまいたとえが出てこないが、とりあえず宮城にボールがまわればひと息つけるみたいな感じは強くあったのである。本作ではその意味、また理由が明かされていく。彼は幼いころに父と兄を立て続けに失っている。特に兄は、宮城以上にバスケのセンスに優れ、将来を期待されていた。その兄が授けた「生きぬく技法」のひとつが、正確なセリフは忘れたが、どんなにきつくても平気な顔を貫くということだったのである。これは、宮城のなかでは指針レベルを超えて内面化されていて、じぶんで気付かないうちにそれを実行するほどになっている。グレた三井一派に囲まれたときは、平気な顔をしながら手が震えていて、その様子がまた相手の神経をさかなでしもする(このとき三井は手が震えていることに気付いているようだった)。アヤコさんに試合前の緊張について語ると、アヤコさんはどこまでほんとうのことをいっているのか、ぜんぜんわからなかったということをいい、それを聞いて宮城も意外な顔をするのである。つまり、表面に内側の緊張や葛藤がまったく出ていないということに、宮城じしん気付いていなかったのだ。だが、アヤコさんのいうことは読者こそもっともよく理解できるはずである。じっさい、原作を読んだファンは、宮城のひょうひょうとした態度に緊張した筋肉をほぐされ、ホッとしてきたはずだからである。赤木は、バスケへの情熱とあの体格や顔貌でチームを引っ張ってきたが、こういう点でいえば、宮城も明らかにキャプテンの器であり、いちばん似ている人物は、本作には登場しないが、稜南のエース、仙道だとおもう。仙道は、実力だけでなく、やはりひょうひょうとした、物事に動じない様子と、敵チームまで目が届くような面倒見のよさをいたるところで見せてきた。状況によらずに人間を見通せるちからはリーダーに欠かせない資質なのである。父と兄という、強力なロールモデルを欠いたまま、それでも平気なふりを続け、バスケにすがって生きてきたところのある宮城は、ポイントガードとして適切な「主人公であることを回避する能力」のようなものを身につけていったのかな、などということをおもったが、平気なふりはどこまでも「ふり」でしかない。試合はそれでもいいが、実生活はそうではない。そこに、母とのわだかまりが生まれる。平気ではないことを認めるその先に、母親との和解があった。では、それが試合に転じるとなにが起きるのだろう。「平気なふりをする」というふるまいじたいにちがいはない。異なるのは、それが消極的なものか積極的なものかということだろう。自衛のためにやむを得ず平気なふりをして主人公であることを回避することと、主人公であることを回避することによってポイントガードの仕事をまっとうすることでは意味がまったくちがうのである。宮城がポイントガードとして完成するためには、この克服が必要だったのだ。

 

 【人生の空白期間としての青春】


桜木と並んで作中もっとっも太い物語を生きているのが赤木だが、当然、2時間ちょっとの映画では、赤木の物語をも描ききるということは難しい。このあたりを、覚えている限りで原作に登場はないとおもうのだが、赤木のひとつうえの、もじゃもじゃあたまのセンパイが体現する感じで表現している。「全国制覇」という無謀な夢を真面目に語る赤木を半笑いで、あるいは部を去る足で罵倒しながら否定する多くのものたちのイメージを、ひとりの人物に集約したのだ。見事だったとおもう。

 
 
スラムダンクという作品全体もそうだが、特に山王戦は、「一瞬眠りに落ちた瞬間にみる夢」みたいな刹那の感触が非常に強い。原作では山王とのたたかいで完全燃焼した湘北は、あとの試合でぼこぼこに負けてしまい、けっきょく全国制覇は果たせないのだが、そのこともまたこの試合の“夢”感を増すことになる。じっさい、高校生の部活として行われるこうしたスポーツの試合は、いっしゅの夢なんじゃないかなとおもう。印象的なのは、負傷をおして試合に出る赤木や桜木である。足が折れてもいいから試合場に立つなどということは、現実が現実として動き出した大人になってからまっとうすることは難しいだろう。桜木の負傷に気がつきながら、あまりに調子がいいためについ気付いていないふりをしてしまった安西先生は、みずからを「指導者失格」という。じっさいそうだろう。だが、それでも秒速で伸びていく桜木を見ていたい、そして桜木じしんの、じぶんのすさまじい成長と試合結果をこの目と身体の感覚で感じたいという感覚そのものは、痛いほどわかる。そしてそれは、大人になってからは決して実現することのできない、人生の空白のような「高校の部活」だからこそ可能なものなのだ。たぶん、それが「青春」というものなのだろう。ひとはいつまでたってもじぶんの「青春」時代のはなしをしている。それは、それがもう二度とやってこない、かつ、ほかの経験とはかえることのできない、唯一無二のものだということを知っているからなのだ。そうした、誰もが抱える、各様に無二の青春を、バスケットボールの試合形式に2時間に凝縮したもの、それが本作である。

 
 
いろいろな見解が入り乱れているので、原作やアニメファンで観にいくのを迷っておられるかたもいるとおもう。特にアニメのファンのばあいは、声のちがい、特に、うえで述べたような、桜木のキャラクターそのものの変質と連動したちがいに戸惑うばあいもあるようである。たしかにそういうぶぶんはある。しかし本作がたいへんな傑作であることはまちがいないので、ぜひ見てもらえたらなとおもう。

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