ウシジマくん童貞問題

※この記事は以前ブログに更新したものと同一です。

ウシジマくんについて書いていくにあたって、ツイッターなどで質問を募集していたので、気になったものをちょっとずつ考えていきたいとおもう。今回は掲示板で質問のあった、みんなが気になるウシジマくん童貞問題。

といっても、最初に断っておきたいことは、本文は「真相を解明する」というような筋のものではないということだ。ほんとうのところ丑嶋が童貞であるかどうかということは、誰にもわからない。もっとも深く作品とかかわっている作者にもわからない。作者がもし「童貞ではない」と断言したとしても、それは作者の解釈でしかない。そういうものなのである。そのうえで、ある種の必然性が感じられるのであれば、批評としてはそこに仮説を見出すことは無意味ではないのだし、ひょっとするとその必然性のさきにもう少し大きな問題に接続することができるかもしれないと、そんなようなことである。

通常、「童貞」とは他者とのセックスの経験がないことを意味する。もっといえば、他者ではなく「異性」とのセックスが未経験であることだ。これをどちらととらえるかで、解釈も分岐していく。性行為を一種のコミットメントだとしたとき、相手の性は無関係になる。相手が異性、女性だとしても、それは「他者」なのである。だがこれをそのまま生殖行為、生物としての繁殖の営みだとすると、相手は異性でなければならなくなる。以下どのような展開になるかわからないが、そのあたりは慎重にいきたい。

これを書くにあたって参考になる作家などはないかと、かなり考えてみたが、ジョルジュ・バタイユくらいしか思い浮かばず、しかしバタイユにおいて性行為は生殖としての意味合いがかなり強い。
バタイユの論文は非常に難解で、それを読み解いた入門書でさえ読むのに苦労するような内容である。しかし、ぼくはそこに言い知れぬものを感じ、このひとを突き詰めて考えてみようと、10年くらい前に決めたのだった。そうして、モーリス・ブランショを読んで、もっと難解でくじけそうになり、内田樹経由でレヴィナスの哲学に触れて立て直すも構造主義にからめとられ、というぐあいに、肝心のバタイユには触れないまま、哲学の深みにはまっていった感じなのだ。だからバタイユの思想について読み間違いが生じる可能性は多いにあり、これから書くことも、拾い読みしてそれっぽいところを見つけてきているだけなので、そのあたりはご了解いただきたい。

同じように繁殖のために行われるものとしての生殖行為でも、人間と動物では異なっている。じっさいには、動物には表情とか表現の作法がないだけで、その内側でなにが起こっているのか、少なくとも人間の文法以外でとらえることはできないわけだから、断言もできないが、人間では生殖行為は快楽に接続することになる。基本的には気持ちいいからやるのであって、よーし繁殖するぞ!という具合には、それを前景化した、つまり子どもをつくろうと目標を立てたものでない限り、行われないわけである。というといくつも例外が浮かんでくるだろうが、この場合には人間がそこに施す演出、つまり創意工夫のようなものを思い起こせばよいだろう。わたしたちは明らかにそれをエンターテイメントというか、楽しみのひとつとして行っているのであって、尿意を催したからトイレに行くとか、お腹がすいたからお弁当を食べるとか、そういう動線ではなく、本能的なものに制限されつつも、そこには理性というか、一種の計算が正統的に混在するしかたでかたちをつくっているのである。「やりたい!やる!」ということも、人間にはないではない。だが、動物のように発意と行動が直結することは決してない。人間における生殖行為は本能だけでなく理性も加担しているものであって、リリカルにいってみれば、「始まる前からすでに始まっている」のである。

そしてこの落差を決定するのが快楽、エロティシズムだというはなしだ。小説『眼球譚』以外でぼくが唯一最後まで読めたバタイユは『文学と悪』だけなので、これを参照していくが、かなり最初のほうにいきなりいい箇所があった。『嵐が丘』のエミリ・ブロンテを論じた最初の章である。ちょっと長いけど大切なので引用する。

「ところで、エロチシズムとは、死を賭するまでの生の讃歌ではないだろうか。性欲にはすでに死が前提として含まれている。それというのも、あらたに生れるものたちが、消え去ったものたちのあとをうけつぎ、それにとってかわるという意味からだけではなく、性欲とは生殖しようとするものの生をあやうくするものだからである。生殖するとは、消滅することにほかならない。きわめて単純な無性生殖生物は、生殖するごとに稀薄になる。なるほど、もし死を生から壊滅へのうつりゆきと解すれば、この生物は死にはしない。しかし以前あったものが、生殖することによって、それが以前あったものであることをやめるのだ(それというのも、それがふたつになるからである)。その意味で、個体としての死は、その存在の生殖面での過剰の一様相にほかならない。ところで、有性生殖も、無性生殖において賭けられている生の不死性のきわめて複雑な一様相でしかない。もっともこの場合、不死性とはいっても、それは同時に個体としての死なのだが。その意味でいかなる動物も、有性生殖をする場合には、かならず死をその究極のかたちとする動きに身をゆだねないわけにはいかないのである。いずれにせよ、性欲発情の根底には、自我の孤立性の否定が横たわっている。つまりこの自我が、自己の外にはみ出し、自己を超出して、存在の孤独が消滅する抱擁のなかに没入する時に、はじめて飽和感を味わうことができるのだ」ちくま学芸文庫『文学と悪』19頁~20頁 山本功訳


いま読んでもよくわからないが、それはおそらく、バタイユがじぶんの確信に基づいて、それがどういうことなのか、文章を経由して納得しようとしているためではないかとおもわれる。バタイユでは『眼球譚』も治療が目的で書かれたものであったので、あふれでる性欲と世界やひとに対するもやもやをにんげんのからだのなかに収めていくために、哲学と文学、またそのことば(思考法)が必要だったのだ。
まず「生殖するとは、消滅することにほかならない」である。無性生殖では、それが「生殖するごとに稀薄になる」という、見えるかたちであらわれている。増えていく、という視点でいえば、この生物は、存在として薄くなりつつも、死ぬことがない。つまり、この場合では(生殖によって)死にゆくということが、不死性に接続しているのである。バタイユではこれは有性生殖においても、より複雑なはなしにはなっているが、変わらない。どう変わらないのか。けっきょくのところ、有性生殖においてもそれは繁殖行為にほかならないから、じぶんに似た別の人間を創造するという営みなのであって、その意味で、それ以前までの存在の輪郭が損なわれると、そういうことだろうか。たぶんそういう意味もある。だが、もう少し別の視点もここにはある。それが後半の孤独云々の箇所だ。要するに、生殖していないとき、わたしたちは個物の人間として完結していて、その有限性のなかに孤独に生きている。これが、生殖行為においては否定される。いっしゅの融けあいのなかで、個物としての輪郭を曖昧にして、一体となるのである。おもしろいのは、孤独を解消するということが、死に近づくことにほかならないということだろう。生殖を通じて、人間は、「私」という個人から、「わたしたち」になりうる。と同時に、そのときには「私」が、少なくとも消滅に向けて一歩進んでいるのである。

こうしてみてみると、バタイユが生殖行為をただ繁殖の営みとみているわけではないことがわかる。この落差に、快楽がひそむ。それぞれ独立して完結している個人がとけあうなかに快楽はあるのであって、バタイユによれば、それは死に漸近することだったのである。

バタイユをめぐる考察においては、もうこたえは出ているだろう。『闇金ウシジマくん』15巻、テレクラくんで、丑嶋は美奈に「孤独を受け入れろ」という。孤独を受け入れないと大人になれない、ガキばかりの国でお前は大人にならないといけないと。これをバタイユを通して言い換えてみるとどうなるか。「孤独」とは、要するに個物として存在しているという事態そのもののことだ。これに耐えられないから、ひとは他者との融けあいを求めて快楽を得ようとする。だが、それは死に近づく行いである。丑嶋は、快楽を拒んで、生きろ、といっていたのである。
このことを踏まえると、丑嶋が日常的に快楽を求めていたとはとても考えられないわけである。まあ、それは見ればわかることだ。だが、それは「童貞」を意味しない可能性もある。「童貞」であっても、生殖行為が快楽を求める営みであることは理解できるだろう。けれども、だからといって、彼がそれをしたことがないとは限らないわけである。となれば、童貞/非童貞でなければありえない展開が見出されなければ、この問いにこたえることはできないことになる。


最終回の展開についてはまだまとまっていないというか、記事にしていないのだが、あのときに書いた大雑把なものとしては、他者との偶然的な関係性で、丑嶋は危機を乗り切った、ということだった。ごくごく単純化していうと、ヤクザくんより前までの丑嶋は、万物をお金に換算することでその全能性を発揮してきた。彼は、ひとが状況に応じて変えてしまう視点というものにかんして、徹底して一貫していた。ものも、ひとも、状況も、すべて金としてとらえ、さらにはそれを調達する職業に従事することで、結果としてすべてを掌握していたのである。しかし、ハブという、金を超えたところから飛来した暴力の権化によってこれがゆらぐことになり、ここから波状的に最終回にいたることとなった。孤独を受け容れろと美奈を諭す丑嶋は、この全能性のなかにいた丑嶋だった。けれども、孤独なままでは生きていけない、ということが、むしろ最終回に至る道筋では示されてきたはずである。というか、個物として、確固とした輪郭を保持したままで生きていくことは、実際問題できない、というふうにいったほうがいいだろうか。それは柄崎を通して告げられてきた。滑皮がいる世界で、丑嶋は「孤独」を貫くことができない。快楽を拒んで、個物として自律し、搾取されずに利益を総取りするようなことは、「世界」が許してくれない。ではわたしたちはあきらめて搾取されていけばよいのだろうか。こうしたところで最後に示されたのが、信頼関係に基づいた「丸投げ」である。あの毒をめぐるやりとりにかんして、戌亥と柄崎は適切な行動をとり続けたわけだが、あれは丑嶋の全能性によるものではなかった。にもかかわらず、丑嶋は、まるでそれが、以前までと同様、じしんの全能性によるものであるかのように行動していた。ここに見えているものが、丑嶋が「孤独」をあきらめて全能性を損ないつつも、しかし一方的に搾取はされない、他者との関係性の世界である。

こうした展開を踏まえてみれば、丑嶋にとって「他者へのコミットメント」は、最終回においてはじめて獲得されたものだということがわかるだろう。まあ、ほとんどのかたが気づいていることとおもうが、この記事は結論ありきで書かれているので、なかなか、牽強付会になってしまっているが、「孤独」であることにむしろ価値を見出してきたのが、以前までの丑嶋だったわけである。そうでなければ、「他者へのコミットメント」が、あのようなカタルシスをともなう描写としてはあらわれてこないのだ。美奈を諭したときも、あれは、「そうするしかないのだ」的な悲愴感をともなうものではなかったのである。丑嶋からすれば、他者にコミットするメリットがなにもない。それは、ただ快楽に惑わされて現実から逃げているだけであって、「大人」はむしろそこにとどまらなければならないのだと。おもしろい符合だが、しかし、ひとはそれを「童貞」と呼ぶのである。「孤独」であることにこだわり続ける丑嶋を、柄崎は「ガキみたい」ともいっていた。とすれば、ウシジマくん最終回は、彼の「大人観」の更新だった、というふうにいうこともできそうである。バタイユでは「孤独」は死から遠い位置でもある。しかしひとは、死から遠ざかることで不死性からも遠ざかることになるのである。みずからの誕生日を祝うために集まる仲間たちを通して、彼は安心したように倒れてしまったが、おもえばあのとき、彼は関係性のなかに不死性をともなって宿ったのだった。これは、物語のなかでは対極に位置した滑皮の言動とも一致する。滑皮は、もう死か地獄しか待っていない現実にいながら、落胆するチューボーに向けて、じぶんは変わらないというのである。ヤクザ・滑皮は、「かっこいい兄貴」としてふるまい、それを後世に伝え続ける、というミッションを通じて完成した。その哲学がチューボーに残る限りにおいて、滑皮は変わらず生きつづける。同じことが、カウカウにもおこっているのだ。そこでは、関係性のなかでの微量の快楽、融けあいのなか、丑嶋は死ぬことによって不死性を帯びることになったのである。


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