ウシジマくん回想② 梶尾問題

背景から分離し、世界から疎外された人物をめぐる描写は必然的に不足しがちになる、というのが前回のおはなしだった。背景とその主成分、あるいは最小単位において合致した人物像は、作者の、あるいは作品の主体性に導かれるかたちで、目的的に描かれることになる。作品は、「描かれるべきもの」を中心に背景とともに自然に歪んでいく。それは、たとえば、いまわたしたちが過ごしている宇宙が急速に横に伸び始めて、わたしたちを含めたなにもかもが横に伸び始めたとしても、だれもそれに気づくことはなく、観測することもできないのと同じように、モノローグ的な作品としては正しい現象である。人物が猛烈に怒れば、背景も自然な怒りを宿すことになるのだ。ところが、背景からはじき出されたウシジマくんの登場人物たちは、ただ、まな板みたいに無感動な写実的背景のうえをすべっていくだけである。そうして、彼が内面において「動機」としているかもしれない、社会、つまり背景に根ざした、行為に至る過程のぶぶんは、欠落することになるのである。
(原則的にぼくは「作者の意図」という視点では作品を読まないのだけど、そうした視点からはずれた雑談的なものとして受け取ってもらう限りでいえば、真鍋先生はこれを意図的にやっているとおもう。ある人物が、Aという出来事を受け取って、Bという葛藤ののちに、Cを行う。こういうときに、描写の流れがBに至ったとき、ふと筆がとまるのである。そして、「まあこれは描かなくていいな」というふうになるのではないかと想像するのだ。一種のテクニックといってもいいかもしれない)


【梶尾問題】

ここでいう「梶尾問題」とは、竹腹に拉致され、拷問されて殺された梶尾が、滑皮が熊倉の命令で鹿島を殺したということをくちにしてしまったという、あの件のことだ。事実としては、まず梶尾の自白を録音したテープがある。これが鳩山に流され、滑皮は鳩山に追及されることになるのだが、このとき、滑皮はなにかひっかかるとしている。それが、なにについてのことなのかは不明だ。声は梶尾でまちがいないということだが、のちに戌亥の発言で、アプリなどで作製可能なのではないかということも示唆されている。あの忠実な梶尾、丑嶋にとっての柄崎のような梶尾が、拷問されて口を割るだろうか。柄崎は、鰐戸に拷問されたとき、舌をかんでいた。これは、逆にいえば、この先の苦痛によっては口を割る可能性を感じたから、みずから、物理的にそれが不可能な状況にもっていった、と捉えられないこともない。ともあれ、まずは、あの梶尾が、ほんとうに口を割ったのか、ということがある。次に問題となるのは、滑皮の反応だ。ふつうの感覚でいえば、「あの梶尾が裏切るはずがない」というところに、戌亥からアプリでも作製可能じゃないか、みたいなことを聞かされたら、飛びついてしまいそうなものだ。だが滑皮は、もうそれはどうでもいい、というようなことをいうのである。なぜ、滑皮は、あそこであれ以上梶尾問題を掘り下げようとしなかったのか。以上のようなことが、ここで呼ぶ「梶尾問題」である。

とはいえ、この件で重要なのは梶尾よりむしろ滑皮だ。というのは、梶尾がほんとうに自白したのか、というあたりのことを考えてみても、こたえは出てこないからだ。だから、この件は本質的には「滑皮問題」ともいえる。というのは、まだ予感にすぎないが、どうもこのことをつきつめていくと、滑皮の本質に届きそうな気がするからである。
そうしたうえで、ひとつ気にかかることは、なにか作劇上問題があるかのように、その場にいたものがきれいに消えてなくなってしまっていることである。まずこの事件を指揮していたのは豹堂と巳池であるが、彼らは現場にいたわけではないし、特に梶尾の件について語ることなく退場してしまった。巳池は滑皮に殺されるときにいろいろとしゃべったようだが、くわしい内容は不明である。現場にいたのは、梶尾とシシックの竹腹、それに福建省からきたという謎の、実質背骨と内臓である。しかし、梶尾を殺したことですっかりビビッてしまっている竹腹を、下手なこと言う前にと、巳池はさっさと消してしまい、福建省のふたりは姿さえ見せることなく帰国してしまったのだ。なんというか、読んでいても、梶尾の拷問がほんとうにあったのか、ほんとうに梶尾は死んだのかとおもえてくるほど、この件は「遠い」のである。丑嶋と滑皮を中心にした物語を本流としたとき、まるでそれが傍流であるというかのように、外部から語られるだけなのである。たとえば日本史を勉強していて、何年に元が攻めてきた、みたいなことがあったときに、はじめて、ちょっとだけ元のそのときの国情について触れられる、みたいなことはあるとおもうが、そういう感じだ。ついさきほど「作者の意図」にかんしては考慮しないというようなことを書いたばかりで気が引けるが、とはいっても、これは真鍋先生ご自身の意図とはじっさいあまりかんけいない。物語が生成・展開していく過程で、おそらくそうあるべきではないという判断が、作家と、物語じたいを通じてくだされたと、そういうことなのである。
つまりこうである。前回の記事と、今回の冒頭で、ウシジマくんを通してある、ある種のわかりにくさは、背景から切除された人物というものを描く以上、必然である、ということを書いた。けれども、少なくとも梶尾のこの件にかんしては、どうやら必要があってそうされたようなのである。梶尾が「本当に自白したのか」、このことにかんしては、追及されるべきではないと、少なくともそのような場面が含まれるべきではないと、このような判断が、作品的には下ったのである。そして、いうまでもなく、それは、滑皮じしんの感想と同一なのだ。

滑皮の巳池拷問のところを読み返してみると、巳池は、全部豹堂の命令だということを吐いている。そしてその直後に戌亥からアプリの可能性を示唆されているのだが、滑皮は、真相はわかったということで取り合わない。いま冷静に読んでみると、あの場面の描かれていないところで、梶尾が吐いたということが明確に確認でき、だからこそ、あえて梶尾の恥をさらしてやる必要もないということで、調査をしなかったというふうに読める。じぶんの感想を読み返してみても、判断がついていない様子だ。要は、わたしたちにも、また滑皮にも、「あの梶尾が」自白するわけない、という確信があるわけである。だから、巳池がすべて話したとしても、アプリで作製したという可能性が現場にいないために否定できない以上、飛びついても不思議はないのである。ところがそうしない。これが今回の疑問のはじまりである。



【仁義について】

ここからの考察で手がかりになりそうなことはなんだろう。それは、滑皮がどういうヤクザだったのか、ということで明らかになるはずである。そして、滑皮がどういうヤクザだったか、ということを明らかにするためのいちばんの近道は、じつは豹堂である。豹堂との対比させることによって、滑皮のありようはより鮮明になる。と、さんざん悩んで、過去のおのれに助けを求め、じぶんで書いた第468話感想を読んで確信した。
その468話感想は、書いた記憶がないので、ほんとうにぼくが書いたのか自信はないが、まあまあよく書けている。だからそちらを読んでいただいてもかまわないが、以下にも展開のために短くまとめておく。豹堂のセルフイメージというか、彼が「じぶんはこういうヤクザである」と形容するときにつかうことばが「仁義」である。それは、滑皮とじぶんを対比させたときに発動する。というのは、滑皮は、手段を選ばない半グレの獅子谷なんかと組んでいる、カネカネカネの、仁義もへったくれもないヤクザだからである。けれども、じぶんはちがうと、このように、彼の、自分自身についてのイメージは成り立つ。それが、昔ながらの任侠としての立ち姿なのだ。ここでいう仁義、とくに「義」の意味するところは、法以前、良心の居場所において、正しいことをなそうとする姿勢のことだ。ポイントは「法以前」というところである。通常、わたしたちの世界において、判断に困る要所には法が施されている。大通りを歩いて横断したいが交通量が多くて渡れない、いつ渡ればいいか判断に困る、こういう状況のために信号はある。しかし、法はどこまでも準ずるものであり、プリンシプルではない。たとえば、車がぜんぜん通っていなくても、いちおう大通りということであれば、わたしたちは赤信号のときに渡らないだろう。けれども、その横断歩道の真ん中におばあさんが倒れていたらどうするだろうか。この心理がほんらいの意味での「義」である。彼らヤクザが仁義を標榜するのは、だから偶然ではない。警察が「義」をなすことはありえない。「義」をなすと宣言することができるのは、「法」ではないのである。
ところが、現実の豹堂はどうだったろうか。潜蛇伝いに偽情報を流して強盗を失敗させたあの女の子を売り飛ばし、梶尾を殺し、じぶんの目的のために竹腹を消す、そんな彼が、仁義のヤクザといえるだろうか。いえるのである。なぜなら、このすべての件にかんして、豹堂はいっさい具体的な行動をしていないからである。場合によっては「あ・うん」レベルで、指示もしないまま、ものわかりのいい巳池にすべてを投げているのである。



【ハレとケ、鏡と自重トレ】

これに対立するのが滑皮であるが、ここで、しばらくこだわっていた「ハレ・ケ」の概念を再び持ち込むことにしよう。これを最初に考えたのは、滑皮の車が禁煙であるという描写があったときだった。これを、ぼくは丑嶋との数少ない共通点ととらえ、ふたりが同根であることの表象と考えた。ふたりは、出自的には等しい。しかし、父子の構造、家族というものをどう考えるかで分岐した。くわしい考察は第451話第480話などがよさそうだが、両者は、タバコの煙を「父」のサインとして認めて、これを移動手段としてハレへ至る社内からしめだし、抑圧している。抑圧された記憶は必ず別のかたちをとって回帰する。丑嶋は、それを徹底的に拒み、にもかかわらず、マサルとのかかわりで抱え込んでしまうものとして、滑皮はこれを構造の問題ではなく個人(彼の父親)の問題として処理し、新たな、正しい父子の関係(ヤクザ組織)に求めていったのである。滑皮は、生における「ケ」のぶぶんを、タバコの煙とともに全人生から追い出した。その人生は、必然的に、全的な「ハレ」となるはずである。そのあらわれが、自重トレ描写と、くりかえされる鏡の前の半裸ないし全裸描写である。彼はまず、自重トレにおいて、じぶんという存在そのものを負荷として受け取っている。その、大きすぎる「存在している」というじたいに決して負けないよう、彼は自重トレをくりかえすのだ。そして鏡にうつしだされるのは、ヤクザの典型的なしるしであるイレズミである。ふつう、仕事が終わって、家に帰ったあと、ひとは、そのペルソナをとりはずして、リラックスした別のありように戻っていくはずである。コア、つまり「素のじぶん」を想定する個人主義であっても、どのありようもすべて表情のちがうわたしであるとする分人主義であっても、この点はそう変わらないだろう。帰宅したときに、わたしたちは、その直前までの人格であることを辞め、もっともリラックスできる表情に変貌するはずだ。ところが滑皮はそうではない。なぜなら、彼にはリラックスすべき「ケ」がないからである。「ケ」は、父親の記憶とともに車の外にしめだした。全的に「ハレ」であろうとする彼は、つまり全的にヤクザでなければならず、いつまでも、それがそこにあるということを、イレズミという刻印を通じて確認していかなければならなかったのである。
そして、482話だ。このとき、滑皮は、すでに亡くなっている梶尾の名前をうっかり習慣で呼んでしまう。その直後、彼は風呂場で鏡を殴って出血しているが、このときに、鏡に彼がうつっていないのである。まあ、ウシジマくんではよくあることなので、あんまり取り上げてもしかたないのかもしれないが、もしそのままに受け取ったとするとどうなるかというと、このとき滑皮は全的なヤクザというありかたを見失っているわけである。というか、鏡のなかにその姿を確認できないということは、そういうことなのだ。では、そのときの彼のどのようなぶぶんが、全的なハレを損ない、つまり「ケ」の流入を許しているのか。むろん梶尾への感情なのである。というか、つい言い方を間違えるが、鏡に映っていない、姿を見失っているということが、彼の内側に「ケ」が流入していることを示すのであって、ここでそれがなにかというと、梶尾だというはなしなのだ。つまり、滑皮にとって、うっかり梶尾の名前を呼んでしまう、そして彼のことを思い出し、なんらかの感情を生じさせる、そういうことは、すべてタバコの煙とともに車外にしめだされるべき事項なのである。



【ダブルバインドの源泉】

さらに重要な項目が、滑皮や豹堂に限らない、全ヤクザにとっての「本音と建前」ということだ。鳩山は当初、次期組長にかんしての猪背との話し合いで、豹堂と滑皮をぶつけようかというようなはなしをしていた。だが、鹿島殺しが発覚したこともあって、遠まわしに、仲良くやるように、彼は両者に告げるのである。ここに、ヤクザの思考法の典型的な本音と建前が見て取れる。ヤクザのように堂々と看板を掲げているイリーガルな集団というのは世界でも例がないようだが、それは、「建前」があるからである。ほんとうはこうなだけど、表面的にはそうではない、というありようが認められているからこそ、彼らは存在することができる。これが、末端の構成員にまで行き届く、例のダブルバインド的な指示系統の由来となる。滑皮は、直接の兄貴である熊倉の迎えに行かなければならないところ、どういう立ち位置からか巳池に呼び止められ、ハナクソをつけられる。直接の先輩は熊倉ということになるだろうが、その現場にはおらず、わざわざ熊倉にはなしをつけてくれるように頼むことはできない。つまり、このとき滑皮は、互いに交渉することはない別々の先輩から、同時にこなすことは不可能な命令をくだされているのである。これがダブルバインドの状態である。滑皮はこのヤクザ的な典型を、丑嶋を引き受けることで克服しようとした。ダブルバインドは、矛盾するふたつの命令のあいだで引き裂かれる状態である。これを滑皮は、ひとつひとつの命令をつぶしていくというような地道な方法ではなく、親がわりの熊倉を殺した丑嶋を引き受けるという、ヤクザがしうるもっとも大きな矛盾を実現することで、克服しようとした、というのがぼくの読みだった。やがてそうもいかなくなり、最後のたたかいに展開していくわけだが、おもえばそうすることによって滑皮は刑務所行きになったわけで、当初の彼の計画はかなり正しかったのではないかともおもえてくる。
ともあれ、ここで重要なことは、滑皮がおそらくその「本音と建前」により引き裂かれを解消しようとしていたことはどうやらまちがいないようだ、ということである。たとえば、豹堂における「仁義」は、「建前」に回収される事項である。彼は、巳池になにもかもやってもらい、じぶんは頷いたりしかめっつらをしたりするだけで、「仁義のヤクザ」としての「建前」を保持している。だが、じっさいには彼は数々の不義理を指示しているのであり、そこに大きな矛盾があるわけである。ダブルバインドを克服するということは、豹堂的な「本音と建前」の対立を解消し、全的なヤクザとして、一貫性をもって存在していくということだったのである。

では、そうしたありようが、梶尾に対してはどのように働くか。それが、戌亥に対する、「可能性のはなしをしてもしかたない」につながっていくのである。滑皮にとっては「本音」と「建前」の差異などない。それが一致したときに、ダブルバインドは解消され、彼は全的なヤクザとなる。この件のポイントは、梶尾がほんとうに自白したのかどうか、ということだった。じっさいの録音であろうとアプリであろうと、鳩山にまで流れて大事になってしまっていることにちがいはない、というドライな見方も、ないではないだろう。だが、滑皮も、彼自身自覚できていないレベルの本心では、梶尾の死にとても傷ついている。墓参りやラーメン屋、また鏡へのパンチなどがそれを示す。だが、そうしたもろもろは、全的ヤクザたろうとする彼にとっては、不純物である。というか、不純物ととらえているであろうということが、描写からわかるのである。では、全的ヤクザたる彼がそのあとにとった行動はなにかといえば、巳池と豹堂の殺害だったわけである。裏表のない彼の行動理論が一枚の大きな地図のようなものだとしたとき、そこには大義が必要になるはずである。いわば、一般人における「本音」レベルでは、滑皮はずっと豹堂を殺したかった。ところが、ただ邪魔だからということで豹堂を殺し、しれっとダブルバインドをクリアしたヤクザを続けることは、全的ヤクザの彼にはできない。殺すからには、地図上の点と点が結ばれるような、ヤクザ的正しさが必要になったはずである。それを、結果として梶尾はパスしたことになるのだ。滑皮は、梶尾が殺されたことで、豹堂を殺す大義名分を手に入れた。それが全的ヤクザの次になすべきことである。つまり、滑皮がそのありようのまま大きく前進する手助けを、梶尾はその死でもってしたことになり、それは梶尾の任務そのままだったはずなのである。そして、それだけなのだ。それ以上「真実」を追求しようとした途端、滑皮は「ケ」を持ち込むことになってしまう。「ハレ」に占められた全的ヤクザの彼は、「可能性のはなしをしてもしかたない」のであり、「ハレ」の彼としては、豹堂殺しの理由をくれただけでじゅうぶんなのである。

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