ウシジマくん回想① ウシジマ本・柄崎問題・誕生日について

なにも書かずにいるとじぶんがなにものかわからなくなってくるような気がして、要するに自己肯定感が下がって病みがちになってきているような感じがするので、ひとまずなにかやってみる。九月だし、そろそろ真鍋先生の新作情報が入ってきても不思議ではない。そういうなかでいまだに書くと決めたものを書かないのも信頼を失うし、ウシジマくん最終巻と最終話感想、またウシジマくん本を読み返して、おもうことを書いていく。



【ウシジマ本に書いたこと】

闇金ウシジマくん本寄稿にかんしては、改めて各位に感謝申し上げたい。書き手志望としてはこれが思い出、記念のようになってしまってはいけないとおもうけど、ウシジマくんファンとしてはありえないほど光栄なことで(仮にぼくがすでに作家かなにかになっていて書き物で生計を立てていたとしても、同じように感じただろう)、なんどあの本を開いてみてもなんかどうやって実感すればいいのかよくわからないままである。高校の友達と大学の友達をうっかり同席させちゃったときみたいな、正しい文脈がつかめないような感覚だ。
あの記事は4000文字程度ということで、4000文字というと通常のウシジマくん感想の半分くらいだな、という体感だけたよりにだーっと書いて、誤字脱字を探して(すごい出てくる)、いらんとこを削って、また書き足して、「できました!」という感じで提出した。
内容はというと、基本的には「わたくしとウシジマくん」というようなものになったが、後半では例の背景と、そこに至る違和感にも触れることができた。要するに、ウシジマくんを「実録漫画」とする向きがあって、お金のこわさを知ったりとか、アウトローの現実を知ったりとか、そういうための手段として受け取る読書傾向が世界にはあって、それはそれでいいんだけど、それだけじゃないだろう、というのが、ぼくのなかにはあったのだ。そうじゃなくて、もっとこう、「人間」を掘り下げた漫画じゃないのかと。ぼくはこうした場合、両者の読みが共存しているかのように書くけれども、それはじつをいうと大人の配慮というもので、このふたつの読み方は正反対である。たとえば村上仁をどう読むかというと、「実録漫画」においては、ありうる世界の怖いはなしに巻き込まれたひとととらえ、いわば疎外して受け取ることになる。しかし、「人間」を描いたものとして読むとき、仁はぼくじしんなのである。
こうした作劇がどのようにして可能になったか、というところで、ぼくは背景のはなしを持ち込んだ。4000文字なのでこれを深く掘り下げることはできなかったし、なんならnoteに誘導できれば、くらいの下品な欲望もないではなかったが(売れませんでしたが)、写真ベースの背景との距離感が、人物の輪郭を際立たせる、というようなはなしである。これは、肉蝮のような人物でも仁のような人物でも同様である。ただ、浮き上がり方がちがう。「背景」は文脈のことだ。「社会」ということばが輸入される前の日本には「世間」という概念があり、いまでも使われているが、文脈は「世間」という語がいちばん近いかもしれない。というのは、小川純と村上仁では属する世界が異なるからである。「世間」は、主観的な感想込みで、内面から構築されるものだ。だが、彼らはそこに疎外感を覚える。じぶんはまちがっているのかもしれないとか、なんでもいいけど、ともかく、その「世間」とじぶんとのあいだに馴染まないものを感じている。それが、緻密な背景との距離感のあいだに宿る。たほうで肉蝮は飛来物である。これは奥浩哉の『GANTZ』、ねぎ星人で最初に知覚したことだった。現実に近い写真ベースの背景に、コラージュ的に貼り付けられた異物は、その異物性を強化させるのである。


そうして、「人間」が徹底して描かれてきたのがウシジマくんだったわけだが、おもえばこれは同時に人物の動かしにくさも呼んでいた。はなしとしてはそういうことではないとおもうが、ウシジマ本のロングインタビューで真鍋先生もそういうことをいっている。なぜ動かしにくいかというと、人物が異物だからである。背景と人物が統一的なもの、あるいは、最少単位を等しくする同じ成分のものであれば、作品は、描かれている人物を中心に多少歪んだとしても、違和感を呼ぶことがない。「描かれるべきもの」、ここでは人物ということになるが、それが進む方向に、背景も連続的に引っ張られて、全体を構成することになるのである。だがウシジマくんはそうではなかった。これが、あの独特の息苦しさのようなものを誘う。それは、こういうことを書くとまたどこかで全肯定とかなんとかいわれそうだが、ウシジマくんにはよくあるあの描写の不足も、呼び込むことになる。人物がある行動に出て、その動機や、そこに至った過程が不明である、ということはウシジマくんにはよくあるが、それはそのまま、「動機」や「過程」が属する「背景」と人物が分離しているからである。考えてみればそれはそう不思議なことでもない。世間に対して疎外感を抱える若者が、いったいなにを考えて生きているのかなんて、誰にもわからない。背景の緻密さは、彼らの感じている「世間」が、物理的にはわたしたちの「世間」と地続きであるということも感じさせる。わたしたちが、中心人物と同じ「世間」を共有し、わかりあっているような関係であれば、おのずと「動機」や「過程」も見えてくるだろう。しかしウシジマくんはそうではないことによって人間を浮き彫りにしているのである。わたしたちがそれを描写不足と感じるのは、背景が描写に伴って歪んでいくエンターテイメント的な描かれかたに慣れすぎてしまっているせいかもしれない。


【いくつか残る疑問点】

さて、ようやく疑問点を語る場所に着地した。すでに完結してしまっている作品であるから、新しく情報が補充されることはない。もしもわからないことがあったら、それは作品内に明かされている出来事から考えていくしかないわけだが、ここでいうわからないことというのは、柄崎と梶尾である。というか、今回最終巻のあたりを読み返してみて思い出せたのはそのふたつだ。なんか他にもあった気がするのだけど思い出せない。
柄崎にかんしては、どの段階から裏切っていたのか、ということだ。気になるのは彼の母親の誕生会の描写である。このときに、滑皮は丑嶋がそこにいることを知っている。これを柄崎問題と呼ぼう。
そして梶尾にかんしては、あの自白である。梶尾は、豹堂にそそのかされたシシックの竹腹と、姿はあらわさなかったが福建省の仕事人2名に拉致・拷問されて、鹿島殺しの犯人は滑皮だとくちにした。というか、その録音があって、それが鳩山に流されたのである。あの録音はほんとうに梶尾だったのか、ほんとうだとして、あの梶尾が果たして裏切るだろうか、戌亥がいうようにアプリ的なものをつかってつくられた音声だとして、なぜ滑皮はあのときあれ以上追及しようとしなかったのか。これを梶尾問題と呼ぶ。
前段と述べたように、本作において「わからないこと」が生じてくるのは、電車で隣に立っているひとが何者なのかわからないのと同じ意味で、自然なことである。だから、読書のスタンスとしてそれをそのまま放っておく、ということは、じゅうぶん意味のあることである。だが、この問題はどちらも裏切り、つまり信頼にかかわることだった。特に丑嶋サイドでは、獅子谷甲児を爆破すると同時に最強の身を守る武器でもあったほとんどすべての財産を失うことにもなった丑嶋においては、信頼関係は重要なものになっていた。そのはなしもするが(今回できなかったらまた次回)、そうしたわけで、もう少し深く考えてもよいかもしれないというふうになっているわけである。

【柄崎問題】

柄崎の母親・貴子の誕生日には、丑嶋と柄崎、それから戌亥が参加した。戌亥の参加は柄崎の誘いによるものであり、丑嶋は知らなかった。ベランダで、なぜ滑皮についたのか等の会話をしていたところ、滑皮から電話がかかってきて、彼が居場所を知っていることが判明するのである。そこで丑嶋は初めて滑皮に真っ向から抗うことになる。従わないと宣言し、貴子を隠し、丑嶋と柄崎がラブホ生活に入ることになるのだった。
なぜ滑皮が誕生会のことを知っているのか、と丑嶋は戌亥を問い詰めるが、もちろん戌亥は知らないという。その前の会話で、おそらく尾行はないだろうということになっている。じっさい、代車ということもあって、GPS等の心配もないだろう。GPSだけでは柄崎家に来ていることはわかっても誕生会だということまではわからないからだ。丑嶋はひとりで柄崎家に来ているので、ひとりごとでもいっていない限り、盗聴器が仕掛けられていたとしても、わかることはない。とすると、可能性としては三つ考えられる。柄崎か戌亥が裏切っていた、あるいは、最初から、ずっと前から、柄崎家には盗聴器が仕掛けられていたかだ。
盗聴器にかんしてはもはやわかりようもないので、こちらの線で考えを進めてみてもしかたがないだろう。この世界がゲームのなかの仮想現実かもしれない、といってみるのと大差ない、意味のない考察になってしまう。しかも、ぼくのような不注意な人間においてそうした検証行為はあまり期待できない。なんでもすぐ見落とすし、忘れるからである。結論から述べると、これはおそらく戌亥が伝えたものとおもわれる。なぜなら、丑嶋社長を止めるためとはいえ、その過程の内側に、登場人物としてじぶんの母親を組みこもうとは、さすがに柄崎もしないとおもわれるからである。となると戌亥しかないのである。
そしてこのことは、彼が誕生会に急にあらわれたことともつじつまが合うだろう。彼は、丑嶋のリアクションを見届けにきたのである。ただ、同時に、このときの戌亥のふるまいの背後には柄崎も感じられる。なぜなら、戌亥を誕生会に呼んだのは柄崎だからだ。高田と小百合の位置が滑皮に知られていたことから、うすうすはわかっていただろうが、戌亥が滑皮と通じていることを、丑嶋は直接質すことで知った。では、柄崎はどうだったかというと、よくわからない。というか、丑嶋もそうだが、滑皮と通じていることが判明してからも、彼らはふつうにつきあっているようなところがあった。というのは、彼らからしてみれば、滑皮が厄介な先輩として要所でからんでくるのは日常でもあったからである。貴子の誕生会でのベランダでのやりとりも、当初はとげとげしかったが、途中からもとの感じにもどっている。だから、柄崎が戌亥を呼んだことにかんして、戌亥と滑皮の関係を柄崎が知っていたかどうかということは、ほとんど無視してよいものとおもわれる。ではこれはなんなのか、物語として意味することはなにかというと、やはり柄崎の丑嶋を止めたいという潜在意識なのではないかとおもわれる。そのちょっと前、丑嶋が甲児たちと強盗に出かけていたとき、戌亥と柄崎はマグネターのはなしをしていた。あの時点で、滑皮はすでに彼らの関係性のなかに食い入っており、これを壊そうともしていたのだ。当初は「滑皮に頭下げてヤクザになったほうがまだマシ」だったものが、戌亥とのマグネターのやりとりを通じて、滑皮はただの結果で、むしろこの事態の原因は丑嶋じしんにある、というふうに、無自覚のなかで考えを変えていったのだろう。丑嶋は、被害者なのではない。みずから破滅に突き進んでいるだけなのだと、戌亥とのやりとりで柄崎はようやく悟ったのである。


【“誕生日”について】

おもえば最終章の「ウシジマくん」はやたらと“誕生日”の多いはなしだった。最終話は丑嶋の誕生日だったし、そのずっと前、マグネターのはなしをする前日は、柄崎じしんの誕生日だったのだ。これはなかなか興味深い。考えてみれば、もっとずっと前、「ウシジマくん」が始まった直後くらいには、滑皮の誕生祝いをなににするかで梶尾と鳶田が揉めている場面なんかもあった。頻出するこのイメージはなんなのか。だが、最終話を経たいまならわからないことではない。誕生日とは、その人間関係の内側において、関係性そのものを下地にして、各自の幻想のなかに生じるその個人が存在しているということ、それをお祝いする日なのである。こういう説明をしてみてもなんのことやらぼくもよくわからないが、これは、命日と対立させることですっきり見えてくるものである。最終話、丑嶋の誕生日は、同時に命日ともなったわけだが、「ウシジマくん」じたいは熊倉の三回忌からはじまっており、やはりこの、ひとの生の切り替えのポイントとしてのイベントは、今回重要なものと(物語上は)考えられていることがわかる。
命日と誕生日が同じ日であるとはどういうことか。丑嶋の生は、手垢にまみれた表現になるが、因果応報の原理のもとに回収された。彼は、万物を金銭に換算して、カウントできるものととらえることで、あの全能性を確保していた。どのような事物も、彼の前ではなにかより量的に大きいか小さいかのちがいしかなく、彼においては人情のようなものも、金銭的なカウントの前には打ち砕かれることになった。こうした視点に対立し、対立した場所から、また同様にして融通のきかない立ち位置を確保していたのが竹本だが、竹本が出てくると激しくややこしくなるので、今回は考察を保留しよう。ともかく、丑嶋はその徹底した一元的視座によって一貫性を保っており、だから、ほんの少しも決断に迷うことがなかった。これが彼のスーパーマンぶりの正体である。
しかし、それは他人の不幸を原動力としている。闇金にやってくるものの大半は社会的に弱っているものである。本来であれば、そうしたものに金を貸すべきではないのかもしれない。金を借りなければ生きていけない、あるいは殺される、とするようなものが、実はそれらをすべてギャンブルにつぎこんでいた、なんてことも丑嶋は何度も見てきた。だが、彼においては、金を貸すべきではないとか、あるいは貸すべきとか、そういう規範は、ほとんど意味をもたない。ただたんに、回収可能性とどのくらいもうけることができるかの兆し、そこから読み取るだけである。無感情とか冷徹とか、傍目には見えるかもしれないが、そういうのともまたちがうのである。ただ、彼は、裏社会においてテッペンに立つためには、金をただたくさんもつのではなく、管理する立場に立つことが強さにつながる、ということを、ひょっとすると獅子谷鉄也を通じて、信じていただけなのである。しかし、では、10万円の価値しかないものが10万しぼりとられたあと、つまり丑嶋的には無価値になったあと、どうなっているかというと、もはや社会的に、どころか、生物的に再起不能になってしまっているわけである。それだけ金を借りて、承諾したうえで金利を払ってきたのだから、というふうに、納得もできない。なぜなら、その債務者含め、ひとはそんなふうに一元的にすべてをとらえることなどできないからである。
そうして、弓の弦をちょっとずつ引っ張っていくように、お金が蓄えられていくにつれて、ポテンシャルエネルギーとしての恨みも、どんどん増していくことになる。間接的ではあるが、丑嶋のふるまいがもたらしたという点で、ここまでのきっかけとなる飯匙倩や肉蝮、マサルの復讐、そして甲児、滑皮、すべてこの、丑嶋の立ち位置の表象でもある貯めこんだお金の反動として生じたものなのだ。
だが、いまだにあれがすべてほんものの紙幣だったのかどうか不明ではあるが、丑嶋の財産は、緊急用のものを残してすべて、甲児とともに燃えてしまった。しかしそれも、以上のように考えれば自然なことだ。甲児が丑嶋を殺そうとすることと、あそこにお金がたくさんあるということは、絶対値としてみる限り、エネルギーの量は等しいのである。滑皮を残した最後の、最強の敵である甲児を倒すためには、丑嶋はもっているお金をすべて燃やす必要が、構造上あったのである。

しかし、持っているお金をすべて失っても、まだ丑嶋という存在へのうらみは残っている。おもえばお金が甲児とともにすべて消滅したのちに、まだ滑皮が残って、これを屈服させるか殺すかしようとしているというのは、滑皮の彼へのこだわりを示してもいる。滑皮のばあいは、熊倉の件があったとはいえ、うらみからのこだわりではなかったのだ。あの最後の時点での丑嶋には、もはや金銭的な意味での価値はなかったのだから。
辰也は終盤狂気を帯びたものとして登場し、丑嶋を刺したわけだが、彼はその、丑嶋がこれまでためこんだポテンシャルエネルギーを最後まで使い果たす役割を担っていたと考えられる。丑嶋は、これまでの強敵からすれば些細な存在に過ぎない彼の思いつきの刃をほとんど受け容れるかのようにする。それは、彼自身、いまこのときが「ゼロ」になるときだと感じたからではないか。丑嶋のお金を単位としたあの壮絶な生は、あの命日でもって、円環を閉じることになったのである。だが、ここには二重の意味がある。なぜ彼は、辰也の刃を受け止めたのか。それは、そのことによって、「ウシジマくん」としての生は結ばれるが、丑嶋馨は、生き残るからである。これは、滑皮のセリフと響き合うものだ。刑務所に入って、死刑か、そうでなくてもいじめ殺される最期になるにちがいない滑皮は、チューボウに向かって、これまでのまま「何も変わらない」という。これは、彼が、熊倉を「いまでもじぶんのなかで(かっこいいまま)生きている」としたのと同じだ。それこそ滑皮のヤクザ観だった。腹が減っても高楊枝、カッコイイ兄貴としてふるまい、部下にもカッコイイ存在であろうと決意させることが、彼のヤクザとしてのミッションだったのである。だから、熊倉がいかにダメなヤクザになってしまっても、かつてかっこよかったという事実だけが記憶のなかにあれば、それでじゅうぶんなのだ。滑皮は、じぶんが熊倉をカッコイイとおもい、憧れたように、部下にもそうおもわせなければならないし、部下も、その部下にそうおもわせなければならないと考えるようなものになってもらいたい。それが、縮小していくヤクザ社会を持続させる唯一の手段であると、たぶんそこまで確信していただろう。だから、もしじぶんが死んでしまっても、チューボウが彼のことをカッコイイと感じ、あこがれ、同じようにふるまおうと決意してくれれば、彼は理念として生きつづけることになるのである。同じことが丑嶋サイドでも起こっているのだ。

丑嶋対滑皮の最終決戦では、外国人の殺し屋が用意した水が、運命を左右することになった。だが、あの流れはどう読んでもかなりのぶぶん偶然が作用した結果である。見事な連携プレーにみえる柄崎と戌亥の働きも、あらかじめ作戦を立てた結果のものではない。それもそのはずである。あの時点での丑嶋は、すでに甲児とともにその全能性を失っているのだ。そこにいたのはウシジマくんではなく、ただの丑嶋馨である。しかし、そのぶん、信頼関係というものがあった。互いに、丑嶋なら、柄崎なら、戌亥なら、適切な行動をとるはずという、ある種の“丸投げ”をしたさきに、あの結末は訪れたのである。ここでいう「偶然が左右する」というのは、これまでのように丑嶋がその全能性を行使して完全にコントロールしきったわけではない、というような意味だ。これが、「誕生日」によって祝福される「幻像」である。ウシジマくんは、たぶんこれからも、辰也が刺さなければ、同じように、弓に恨みのエネルギーをためこんでいくようにして、仕事を続けていっただろう。このままでは、戌亥たちが祝福する「丑嶋馨」の幻像は立ち現れてはこなかった。丑嶋は、ウシジマくんの性を完結させなければならなかったのである。だから受け容れた。そしてそのことよってようやく、関係性のなかに宿る幻像としての丑嶋は輪郭を結ぶのである。それが「誕生」ということだ。ひょっとすると、滑皮にとっての熊倉もそうだったのではないだろうか。熊倉が醜態をさらし続けたままで、滑皮がおのれのヤクザ観の礎となる「カッコイイ兄貴」としての熊倉のイメージを保ち続けられたかどうか、わからないわけである。「まだ生きている」と滑皮がいえるのは、熊倉が死んだからではないのだろうか。

ともあれ、最終章における「誕生日」は、命日と同義、あるいは反転でもあって、関係性の外側の、ひとによっては望ましくないありようを破棄した、関係性のなかに宿る存在を祝福するものだった。柄崎にとってみれば、それはもはや闇金がどうとかいうことを超えた敬愛の対象としての社長だったろうし、戌亥からすればふつうに親友である。これら、おのおのが抱えている丑嶋のイメージは異なるだろうが、共通しているのは、それがそこに存在しているということを喜ぶということだ。じつはこれはお葬式の景色と同じだ。お葬式には、その原因となった人物だけが存在しない。ひとびとは、そのいないひとのことを語り合い、笑ったり泣いたりして、おのおの抱えているイメージは異なりつつも、その存在について共有を果たすのである。だから、丑嶋不在の誕生日会は、景色としてはお葬式(命日)と等しい。ところが、丑嶋馨じたいは、その彼らのイメージのなかだけにもはや宿るものとなっている。彼らは丑嶋が死んでしまったことを知らないが、結果としては、お葬式の体をとりつつ、やはり、丑嶋の存在をお祝いしていることになるのである。


梶尾問題にはたどりつかなかった。が、だいぶ整理できたので、次はすぐかけそうな感じがします。また次回。

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