千田有紀ほか『ジェンダー論をつかむ』(有斐閣)書評

※ブログに書いた雑な記事ですが、フェミニズム関連のものはまとめておきたい気持ちもあり、また、じっさい現時点での問題意識についてひととおり書いてあるものでもあるので、こちらにも転載します。以下本文。


フェミニズムのこれまでの歩みというか、思考の歴程を網羅した教科書的な一冊がほしい、というところで本書を選んだ。同様に「~をつかむ」というタイトルで教育学から政治学まで、有斐閣からはさまざまなテキストが出ており、どれもわかりやすくしあがっている。またフェミニズムに関しても有斐閣からは初学者向けの社会学の本がけっこう出ており、迷ったが、ミュージカル『1789』に出てくるオランプってひょっとして、フランス人権宣言の指示するシトワイヤンに女性が含まれていないということで「女権宣言」をしたオランプ・ド・グージュなのでは?という疑問が出てきて調べたときにぶつかったサイトで紹介というか参照されていたので、これに決めた(こたえとしては、別人)。


求めていたのはよく知らない用語にぶつかったり、迷ったときに戻っていけるような地図のような一冊で、じっさい、そういう読者を想定しているかのようにざっと一望するような感覚でつくられている(ひょっとして大学1年生くらいの授業でつかわれることを想定してもいるのかな)。はっと目が覚めるような悟りももちろんあったが、だから全体としては問いかけが多く、まだまだわたしたちがあたまをつかって取り組んでいかなければならない問題は、山積みというか、たぶん際限なくあるのだということがつくづく思い知らされる。執筆は千田有紀、中西祐子、青山薫といった先生方になる。以下、思いついたことをだらだら書いていく。

ジェンダー理解にかんして最初にしていちばんの難関とおもわれるのは、「そうは言っても、げんに人間のからだは男と女に分かれているよね」という、生物学的セックスにかんする素朴な思い込みである。からだとこころの性が一致しないことがあるという、それじたいについては、現代ではかなり理解も深まっているとはおもうが、そこから、そもそもそれが不都合になる原因が、「男/女」ということばによる区別にあるのだ、というところまではかなりの距離があるのである。ぼくじしん、生物学的な男女の別にかんしては、自明とはいわないまでも、「ペニスがあるのが男/ないのが女」という明らかな識別方法がある、というふうにはとらえていたのだ。ソシュールを素人なりに研究してきたものとしてはなかなか恥ずかしいことである。男も、女も、ということはペニスも、あるいは陰核も、おもえばすべて「言葉」なのである。たとえば、「狼が生息する場所は立ち入り禁止」という決まりがあるとしよう。ある場所では、犬と狼は「言葉」によって区別されており、それぞれに異なった役割、「価値」のなかにある。だが、必要に迫られず、狼と犬を区別してこなかった言語体系のなかにいるひとは、そこが立ち入り禁止かどうかをどうやって判断すればよいだろう。いやいや、どう見たって、ペニスがある/ないは明らかに判定できるじゃないか、とおもわれるかもしれない。犬と狼みたいに似てはいないだろうと。生物学的には「性分化疾患」という、男女どちらとも即座には判定できないような状況もあるが、ここでは言葉にかんして考えよう。たとえばそれは、ジャングルに住むものが、都市に暮らす植物学者よりはるかに複雑な分類や呼称で身の回りの木々を扱っている、というようなことと同一なのである。歴史的にも、わたしたちの身体観というのは推移している。いまわたしたちが「ペニス」と聴いて思い浮かべるようには、かつての男たちは性器をそれとして認識していなかったかもしれないのだ。でも、性行為はむかしからあったはずだ。そうでなければ、人類は滅んでいる。これにかんしては、多少の問題のすりかえが行われている疑いがある。というのは、通常性行為というのが男女間で行われるという了解は、決して自明ではなかったからである。いまでいう同性愛みたいなことは、戦国時代にも、ギリシャにも、自然なこととしてあったのである。一点、妊娠にかんしてはたしかに女性をそれ以外のものから分かつ現象であるといえるかもしれない。しかしながら、性行為と妊娠を安易に接続させてしまうところに、すりかえが感じられるのだ。性行為じたいに男女の区別は必要とされない、というところに、妊娠できるのは女性だけである、ということを持ち込むことはできないのである。また、ある点では、この「妊娠」も、人類の営みを永続させるたいへんな事業として敬意を払いつつ、できるかできないかの可能性の文脈で語るのであれば、それ以外のすべての、どのような行為もそうであろう、というはなしになるのである。
ジェンダー論は、このようにして、社会的、また歴史的・習慣的に疑われてはこなかったことを無化していくものでもある。なぜそんなことをする必要があるのか?といえば、もちろん、それに苦しんでいるひとたちがいるからである。世界が「言葉」で分節されている以上、世界は人工物である、という視点に立ったとき、「言葉」を用いて社会的な男女という分節が施される以前の世界が、人類の原初の姿ということになるのかもしれないが、どうだろう。それより、なにが本来か、なにが自然か、ということを問うことにはあまり意味がないのではないか、というところからぼくは出発したい。「人権」を発明することで、わたしたちは、虐げられるものたちを「見る」ことができるようになった。苦しんでいるひとたちが前景化されるようになったのである。同じように、というかその延長線上のものとして、げんに抑圧されているものたちがいる現状を前にして、わたしたちは、「本来」であろうが「人工物」であろうが、それを除く努力をしていかなければならないのである。
こういうふうにおもったのは、女性差別が全世界的に、非常に長い期間続いてきたことと、またウーマンリブの運動がシンクロニシティ的に全世界的に起こったということを本書で知ったからである。女性差別をしてきた男性たちは、なにも全世界で結託してそうしてきたわけではない。つまり、ある種のものの道理としてわたしたちはそれを自明のものとしてきたのである。「ものの道理」とは、たとえば「腕力」が思いつくかもしれないが、本書では(コラムあつかいではあるが)それは否定されている。そうではなく、おそらくこれは、言葉という機能がもっている権威づけのような作用ではないかとおもわれる。いずれにせよ、女性差別は、ある種「自然」に始まったのだ。やはりぼくはそこから出発したい。すなわち、「自然」であることにそれほど意味を見出さない、という態度においてである。それがほんとうに「自然」かどうかは、誰にも判断できないからだ。もし「自然にそうなった」ことが正しいのであれば、世界はいまだに奴隷に満ちており、各地で私利私欲に満ちた殺し合いが発生しており、富むものが富み餓えるものが餓える世界になっているはずだ。だが、「これじゃだめだ」という感覚が、それを是正していくのである。

この場を借りてメモ的に記しておくが、いまぼくが抱えているフェミニズムにかんする意識でポイントとなる点は、語り口と対話の不可能性である。語り口については、幾度か書いたが、「女性差別を客観的に記述する方法がない」という問題意識だ。これは『82年生まれ、キム・ジヨン』が作品全体で指摘していたことだ、とぼくは理解している。あの小説は、医師のカルテという体裁をとっていた。カルテとは、かつての自然主義の作家たちが至高とした、「もののあるがまま」を記す恰好のモデルだった。宗教の時代から科学の時代に突入し、科学的に病気の症状を記述する、その文体こそが、究極の客観を実現していると考えられたのである。ところが、そのように客観的であることの典型とおもわれるカルテでも(じっさいにはカルテというようなかたい文体ではないのだが)、ほとんど無意識に、最後の場面で、ちょっとした仕掛けが発動する。その瞬間、女性差別をそれじたいとして記入していたものはどこにもいなくなってしまうのである。この問題にかんしては、魯迅を参考にして考えをすすめていこうかと計画している。魯迅は『狂人日記』という、『82年生まれ、キム・ジヨン』とまったく同じ構造の小説を書いている。日記のなかで狂人は中国の人肉食を告発するが、その彼じしんが、気づかぬうちに人肉を食していた、という内容なのだ。
対話の不可能性とは、そもそも非対称であるからそれを正そう、という前提で駆動しているフェミニズムの文脈において、男と女の対等な議論は可能なのか、ということである。個人的には可能だと信じたいが、ツイッターを経由して絶望的な気分ばかりを味わっているのが現状だ。ここで考えついたのは、プラトンの文章である。プラトンは、ソクラテスの勇姿を描くにあたって、「対話篇」という方法を用いた。それは要するに、街の名士とか、知り合いのあたまのいいひととかとソクラテスを対話させ、ソクラテスに論破させるというものである。しかし、あれをいわゆる「対話」と読むひとがどれだけいるだろう。結果としてそれは、ソクラテスによる、バフチンのいうモノローグになっていないだろうか。議論を行い、相手をどうやって打ち負かすかを目的にする限りで、対話はモノローグであることをやめない。というか、「このやりとりがどちらのモノローグになるか」の勝負でしかないのである。これは対話とは呼べないだろう。
これは語り口の問題ともからんで、よりいっそう(ぼくのなかでは)難問となっている。たとえば、女性が行うミラーリング(相手の言動がどのようなものが自覚させるために、主語や目的語を変えて同じように言い返す・やり返す)を、男性側でも行うひとが多いが、それは有効なのだろうか。そもそも非対称であるという前提からはじまっているところで、果たしてそうした言葉のゲームはなにかを生み出すものだろうか。

語り口の問題が示すのは、フェミニズムにおける出発点は「私」しかないということだ。ある差別がげんにそこで行われても、それを記述する語りかた、つまりものさしがない以上、そこにそれがあることをいえるのは、「私」だけなのである。それが、ネットでは「お気持ち」と揶揄されるフェミニストたちの行動様式である。だが、こう考えればわかるように、「気持ち」から出発していることそれじたいはまちがいではないのだ。それは、「これじゃだめだ」と、「自然」に展開してきたはずの世界を是正する端緒になるはずである。それはもちろん、世の中にはいろいろなひとがいるので、いろいろな「お気持ち」も混在してしまうのもまた事実だろう。けれども、制度を先取りしている位置から、その「気持ち」の価値をはかることは、ほんらいできないはずである。この感覚は、忘れてはならないだろう。また、これが表出する場所がツイッターであるということも、問題を複雑にしている可能性がある。というのは、ネットのなかでもツイッターほど、「公」と「私」の境界があいまいな場所もないからだ。それがどういう立ち位置から発せられたものか不明瞭なままモノローグの主導権争いにはげんでも、そしてそれっぽい、ロジカルな語り口で装飾しても、それはただの喧嘩ではないだろうか。



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