書評 田上孝一『はじめての動物倫理学』

『人形の家』書評でもちょっと触れたが、ルッキズムと動物倫理は強い葛藤を呼び込む議題だ。ひとことでいえばその葛藤は、「理解」と「実践」のあいだにある気の遠くなるような距離を示すものである。それは、いまこの瞬間のわたしたちのふるまいにおいて、動機や前提となるような価値観や原理が転覆すること、そしてそれに直面するということにほかならない。ルッキズムは、外見によって評価を下す行為が差別につながっていくことを告発する思想である。初期衝動的には、その評価が低く見積もられることに関してルッキズムは構成されてきたはずだ。だが、論理的な必然として、そうでないばあいもここでは考慮されていくことになる。そうしたとき、ぼくは当然にルッキズムの思想に同意しながら、その文脈のままにある女優の美しさを讃えるのである。
こういう、「理解」と「実践」の隔絶に直面することが、知的努力の向かう先であるはずだということを『人形の家』の書評では書いた。『人形の家』後半部でノラとヘルメルの会話が成り立たないのは、両者の用いる言語が異なっているためである。ノラは、女性を人形扱いする見えにくい女性差別の「当事者」であり、被差別者ではないヘルメルがそれを理解するには知的努力をほんらい必要とする。彼はそもそもその努力すらしていないので、会話が成り立つはずはない。が、この努力にしたところで、知れたものである。こうした世界の見えかたにかかわる価値観の変更にまつわる議論では、「理解」と「実践」のあいだのある種の疎外とともに、非当事者は余裕をもって身振りを選択しなければならない。


このレベルの価値観の変更は、これまでの人類の歴史でもなかったことではなく、実現はできる。いま「でも黒人は人間ではないですよね」とくちにする人間の誤りを現代人が直観できるように、「でも美人(美男)は正義ですよね」と無邪気にくちにするひとを、未来の人類は異様に感じることができるようになっている。しかしそのためには、なにしろスタートしなければならない。その道程においては、漸減するものではあれ、「理解」と「実践」のあいだには疎外がある。たゆむことなく続けられた知的努力は、この距離を少しずつ縮めていくはずだ。


同様のことを、動物倫理について強く感じるわけである。とりわけ本書を読んでいたあいだはずっとそのことが引っかかっていたのだった。つまり、「もう肉を食べるのはやめよう」と「理解」したその足で、ぼくはチーズバーガーを食べているわけなのだ。いったいこの、とても解消できるとはおもわれない自己矛盾を、どうとらえればよいのか。本書ではかなり徹底的に、肉を大量生産していく現代の流通システムが暴かれており、すでにビーガンとしてふるまっているもの以外を絶句させる内容となっているが、以上考えたように、必要なことはともあれ知的努力であり、すなわち「葛藤」である。あとがきにも記されているが、本書はいまチーズバーガーをかじっているものを罵倒するものではない。その意味では啓蒙というよりはむしろきわめて学術的な本といえるかもしれない。要するに、よく読んで、よく考えよ、ということだ。


ぼくのなかでもこれから練り上げていく問題でもあり、一知半解なまま「解説」でもないので、内容についてはごくあっさり書くにとどめるが、動物倫理をどう基礎づけるか、本書では倫理学の基本的なところから、歴史的な展開も踏まえ、非常に精細に、しかしわかりやすくほどかれていく。それはたとえば、動物の「権利」をどのように設定していくべきなのかということなのだ。本書では功利主義、義務論、徳倫理学が考えられる方法として取り上げられ、じしんは種差別主義者であることを免れなかったが思考の枠組みとしては比類ないものとしてカントをベースにした義務論が、基本的に動物主体の原理を打ち出す導きとなった。たとえば功利主義が、動物の「痛み」を根拠に肉食を否定するのだとしたら、では痛みを感じなければ殺してもいいのかというはなしになる。薬で眠らせた動物を即死させるなら倫理的であるといえるのか、遺伝子操作で痛覚を除けばどんな虐待も許されるのかということだ。功利主義は幸福の総量の最大化を目指すので、不幸、ここでは痛みにかんして最小化を目指すものでもある。こういうふうに、一見すると説得的でもつきつめるとうまくいかないのである。それは功利主義が「無私」の思考法だからかもしれない。ここで想定されている「痛み」は、けっきょく空想の、数量的なものなのだ。そのいっぽうで、カントに立脚したトム・レーガンは、存在の「内在的価値」を唱える。功利主義における主体は、幸福や快楽、もしくは苦痛を実現する「手段」である。そうではなく、それじたいが目的であるような存在であると。


「権利のある存在とは一般に、本人の意思に反して自己の自由を奪われないような存在である。それはつまり、何か別の目的のための手段ではない、それ自体としての目的的価値であるようなものとしての権利を有する存在である。であるならば、動物の権利もまた、そのような目的的存在としての権利であるはずである」88頁


もっとも長い第3章では、現在人間がどのように動物と接しているか、つまりどのように虐げているのか、食品、動物実験、動物園や水族館、狩猟や害獣としての駆除、伴侶動物から動物性愛まで、たぶんこれでぜんぶじゃないかというほど徹底的に描出される。無数の発見と絶句の連続となるすさまじい章だったが、最初の驚きは卵と牛乳である。畜産はconcentrated animal feeding operationを略したCAFOと呼称される。牛や豚を一箇所に集めて効率的に肉を回収するために、虐待としかいいようがない行為が機械的に行われている。たんに動物虐待であるだけでなく、最近ニュースでもよく見かける牛のゲップなど、ほかの問題に直接的につながる害もある、非効率的な方法なのだが、こういう現状を目にして、お肉を食べないベジタリアンになるというのは、ぼくのようなあさはかなものでも心情的には理解できる。こういうばあい、動物性たんぱく質は卵や牛乳から摂るということに通常なる。だがそれではだめなのである。肉食は、肉を食べている以上、その牛や豚は死んでいる、つまりどこかの段階で殺している、すなわち虐待だと、すんなり理解できるだろう。そのいっぽうで、卵や牛乳は、殺してはいないわけなので、やはり心情的には受け容れやすいのだ。だが、この陰では、たとえばオスのヒヨコは生まれるなり殺されているわけなのだ。考えてみれば当然のことだ。これほど大量の卵や牛乳が流通するためには、それを生み出す乳牛や鶏も当然そうとう不自然な環境に置かれているのだ。
動物園や水族館に対しても本書では徹底的に論じられているが、意外なところでは伴侶動物、いわゆるペットである。その響きの悪さから、最近はコンパニオン動物と呼ばれるようだが、わたしたちが「動物虐待」と聞いて最初に思い浮かべるようなペット事情は、動物倫理学的には後回しになるのだ。むろん、「じゅうぶん楽しませてもらったから」などといって保健所に犬を連れてくるような信じがたい人間や、じっさいに暴力を加える虐待、悪質なブリーダーなどといったものは存在するわけだが、動物倫理学が対象とするのは原理であり、こうしたひとたちは個別に非難されるべき「論外」の存在である。
で、このはなしでかなり衝撃的だったのが、人間と共存することで幸福になる犬や猫のようなコンパニオン動物は、倫理的な善を求めると、最終的には絶滅するということである。ここでは、生まれてきたことじたいが最大の不幸であり、生後体験するどのような幸福もこれを塗りつぶすことはできないとする反出生主義が引かれている。犬や猫は、人間と幸福に暮らすことができる。しかしそれは、人間がいないところでは不幸になるということでもあるのだ。つまり、彼らの生は、言い方はよくないかもしれないが、人間とのある種の隷属関係以上の幸福を見ることができないのだ。とすると、わたしたちが彼らにたいしてできることは、じぶんたちと暮らすことでもっとも幸福になる状況を見つけ出していくことだけである。つまり、一代限りの天寿をまっとうさせることだと。じっさいにはそんなじたいははるか遠く未来までやってこないだろうし、そのときには新しい方法も見つかっているかもしれない。だが原理的にはそうなるのである。


通してあるひとつの態度として、ある程度の理は認めつつも、理想論は退けていくということがある。つまり、そういう記述があるわけではないが、究極的には人類が亡びれば、犬や猫以外の動物はみんな幸せになるのではないかということだ。だがもちろんそういう着地点を目指すことはできない。ひとつには、このように動物のあつかいがひどいものであったということは、「悟り」にほかならないということがあるだろう。たとえば、むかしの人類は農業や移動に牛や馬を使っており、それは生きていくために必要なことだった。それが、現在ではまったく不要になった。「生きていくためにどうしても必要な道具」としての動物は、この世にはもういないのである(肉食や動物実験がそれに該当するが、それを別に掘り下げるのが本書全体である)。それが、動物倫理学を導いたわけだ。つまり、あるときから突如虐待されている動物たちが増えたわけではない、ずっとそうだったものを、わたしたちがようやく「見る」ことができるようになったということなのだ。これは、フェミニズムや、うえに述べたルッキズムなどと同質の状況である。フェミニストがあらわれることで女性差別が突如出現した、というような皮肉をいうひとをたまに見かけるが、そうではなく、これは、ようやくそれを「見る」準備が整った、ということなのである。そして、ではその「準備」、要するにそれを「見る」ことができるようになった条件とはなんだろうかというと、人類の文明的発達にほかならないのである。当然そうだろう。たんに人類と比較して非対称であるというだけでなく、ほかの動物が「動物倫理学」を考案してほかの種に配慮し始めるというようなことは起こるはずがないのである。そして同時に、その文明の発達が動物たちを虐待してもいるわけだ。この点にかんしては、虐待がもともとあったのを「見る」ことができるようになったいっぽうで、たしかに増幅させているものではあるのだろう。したがって、ここに生じる「配慮」は、形状としてはノブレス・オブリージュと同じものになる。文明の発達は、動物たちを苦しめるが、同時に、そのことを人類に悟らせもした。むろん、ケーキを食べればいいじゃないかという人類もいるかもしれない。しかし悟ってしまったものは、その義務感がもたらす葛藤から逃れることはできないだろう。
こういうわけで、「動物倫理学」は、当たり前のはなしでもあるが、まぎれもなく「人類」ならではの営みであるといえるのだろう。である以上、人類であることと、動物に配慮することを分離することはできない。それが理想論をおだやかに退けるのではないかとおもわれる。



終章では著者のもともとの専門であるマルクスが取り上げられており、非常にスリリングな展開になっている。著者のマルクス関連の論文を読みたくなってくるような挑戦的内容だ。権利主体をどのようにとらえるかというラディカルな問いをしないでは深められない主題であるぶん、どこを読んでも哲学的に深い考察を要するものであり、引き続き勉強していかなければならないと強く感じた。

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