遅さに価値はあるか

コスパ、タイパと言われるようになって久しい。遅さ、立ち止まるといった行為に価値はないのだろうか。

人間の実存的な問題に対して、コスパ、タイパは解決策にならないだろうと思っている。

ただ周囲のなんとなくの空気に合わせて、目の前に出てきたものを消費する。それはただ自分と向き合うのを避けて、暇つぶしをしているだけな気がする。

だから、YouTubeやSNSを見てだらだら1日が終わった時に罪悪感を感じるのではないだろうか。
提供されたものを、なんとなくクリックすることに意味はあるのだろうか。そしてその内容を人に3分でも語れるだろうか、また語りたいと思うだろうか?

まずは自分が一体なにをしたいかを、どういう気分なのかをしっかりと掴むことなしに充実感はないだろう。
自ら意図的に遅さを作り出さなくてはならないと思っている。

つまり遅さの価値は、いまの自分と真剣に向き合って、他者のまなざしではなく、自分の充足感を作り出せることに他ならないと思っている。


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