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ブルース・リーと東洋思想

『基本中国拳法』に示された東洋思想

 アジア人俳優の存在を世界に強く印象づけた武道家ブルース・リーが32歳の若さで亡くなってから、今年7月で50年が経つ。わが国でも、かつてブルース・リー主演映画の影響でカンフー・ブームが巻き起こった。筆者も小学生時代にヌンチャクで格闘ごっこをしたことを記憶している。それから半世紀の歳月を経て、いま筆者がブルース・リーに改めて注目する理由は、彼の武道の中に西洋近代思想を超克する東洋的思想が取り入れられているからだ。
 ブルース・リーは1940年11月27日にサンフランシスコで生まれた。広東演劇の役者だった父李海泉は中国系、母何愛瑜は白人と中国人のハーフ。彼は生後まもなく、イギリス植民地下の香港に帰国し、子役を務めるようになる。ところが、喧嘩に明け暮れるブルース・リーに手を焼いていた父の意向で、18歳のときにアメリカに渡る。21歳になった1961年、ブルース・リーはワシントン大学哲学科に進学し、勉学に励んだ。そのかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始めている。1963年の『基本中国拳法』出版によって、ブルース・リーが創設したのが「截拳道(Jeet Kune Do/ジークンドー)」である。『基本中国拳法』には、次のように書かれている。
 「グンフーは、健康促進、精神鍛練、自己防衛の技術である。その哲学は、道教、禅、易経に基づくものであり、その理念とは、マイナスをプラスに変えることである。最小限の力で最大の効果を得ることを目標としており、そのためには敵の動きに調和し、無理せず相手に逆らわず適応することである。グンフーの技術は、力に頼るのではなく、エネルギーを最小限に抑え、陰あるいは陽のどちらか一方には偏らないということを目指している」
 「グンフーの基本的理念とは、陰陽の理論に基づくものである。このお互いに補足し合う力は、連続的であリ途切れることがない。この中国の思想は、あらゆる事柄に当てはめて応用することができるが、ここではグンフーのことに限って説明していくことにしよう。
 まず、円の中の黒い部分であるが、この部分は陰と呼ばれている。この陰と呼ばれる部分は、消極性、受動性、穏やかさ、空虚、女性、月、暗さ、夜などの意味を表している。それに対しもう片方の白い部分は、陽と呼ばれている。この部分は、積極性、能動性、堅固さ、実存性、男性、太陽、明るさ、昼などの意味を表している。
 よくある間違いは、この陰陽のマークを、二元論の太極のマークと混同することである。太極のマークでは、陰は陽に相反するものとだけ教えている。もし我々が陰陽の思想を この太極のマークの示すように2つあるものの一方に過ぎないという様に考えるなら、いつまでたっても真実を知ることはできないだろう。
 実際すべてのものは、補い合う部分というものを持っている。それは人間の心の中に、相反するものの中に存在しているのだというものの見方によるのである。太陽は月の正反対のものという考えは間違っているのである。それらは、お互い相関関係にあり、どちらか一方が欠けてもお互いが存在し得ない。同様に男性という存在は、単に女性という存在を補うだけのものではない。男性がいなくては、女性はこの地球上に存在し得ないのである。また、その逆もしかりである」(松宮康生訳)
 まさに截拳道の根底に東洋思想であることがわかる。ブルース・リーの死後に編集・発刊された『Tao of Jeet Kune Do』(1975年)や『The Tao of Gung Fu』(1997年)には、タオイズム(老荘思想)、禅仏教などの東洋思想に支えられた彼の考え方が明確に示されている。ブルース・リーは禅に関する鈴木大拙の書も読んでいたという。

反デカルト主義者としての李小龍の思想


 ブルース・リーの思想が明確に示されているのは、1973年に公開された『燃えよドラゴン(龍争虎闘)』だ。少林寺の高弟リー(ブルース・リー)と、少林寺で武術を学びながらも悪の道に手を染めて破門となったハン(シー・キエン)との闘いのドラマだ。
 その冒頭、リー(李)が少林寺の高僧と語る場面がある。この場面は、香港公開版では使用されたが、ワーナーの意向で国際公開版からはカットされていたという。その後発売された「ディレクターズ・カット版」にはこの場面が収録されている。
 四方田犬彦氏は『ブルース・リー』(ちくま文庫)で、この場面を忠実に再現している。
 〈高僧は李にむかって、お前の武芸はすでに最高の段階に到達しているが、技におけるもっとも高い達成とはどのようなものかと尋ねる。李はそれに対して「武術の最高の技とは、技という形をもたないことです。」と答える。「お前は敵を前にしたとき、どのように感じるのか」
 「敵は眼中にありません。『私』というのは抽象的なもので、特別に意思をもっているわけではないのです。闘いは遊びのようなものだと理解しています。ただこの遊びはきわめて真剣になされなければなりません。いい武術家になるためには、形に捕らわれていてはだめです。武術というのはみずから発するものだと知らなければなりません。相手が身を竦めれば、こちらは進みます。相手が進んでくれば、こちらは用心して守りに徹します。退けば進み、進めば退きます。自分が絶対に有利なときには、「私」が考えて打つわけではありません。(ここで右手を高く掲げて)これが代わりに打ってくれるのです」。すると高僧は李の右手首を掴んでいう。「まさにしかり。いわゆる敵とは幻影にすぎぬ。つまり本当の敵はおまえの内側に隠れているのだ。幻影を消すことができれば、敵の本体を消すことも可なり。だがお前のいう『これ』は、多くの者に誤用されておる」
(中略)
 この高僧との対話の直後に、幼い少年弟子が李に話しかけてくる。李は彼に、自分にむかって蹴りを入れよと命じる。少年の蹴りに感情がこもっていないと見た李は、いくどもやり直しを命じる。少年が躊躇していると、彼はすかさず少年の頭を打ち、「考えるな、感じるのだ」という。「指が月をさすとき、ただ指を見ているかぎり、月の美しさに到達することはできない」〉(中国語原文は省略)
 四方田氏は、こうした場面を再現した上で、極めて重要な指摘をしている。
 〈「私」ではなく「これ」が代わりに闘ってくれるという言説が意味するところは、深遠である。それは単に武力の優位を語っているわけではない。いささか大袈裟な表現を用いるならば、西欧が近代において確立してきた自我の外延としての身体という考えが、この言説のなかで否定されている。闘いのさなかにあっては「私」という狭い主体を越えたところで、非人称的で匿名的な何者かが作用している。闘いとはこうして個我を捨てて、いまだ誰のものとも名付けられないでいる流れのなかに身を委ねることにほかならない。反デカルト主義者としての李小龍の思想が、ここには明確に語られている〉
 大アジア研究会(代表:小野耕資)主催で「ブルース・リーと東洋思想」についての勉強会も企画中だ。


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