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言葉のマウントからの脱却

独立したと言えば聞こえはいいが

「会社員」というある意味パラノイアな状況から逃げて(スキゾ)フリーランスになり、早13年も経つ。独立したと言えば聞こえはいいが、それがフリーランスという場所だっただけだ。やりたいことが組織ではできないということもあり、そのための手段がこれだったから、という理由もあるが。

もしパラノのままだったら家庭を持っていたかもしれないし(家庭もパラノの1つでもあるし)、組織の中でそれなりの位置にいたかもしれない。知らんけど。

上記のように、人はこうあるべきといった世の中から多様性の世の中へ遷移し、パラノな状態がもはや心身の安住でなくなってしまった今、生きていくという意思や思いの力が生きる原動力となり、もしかするとそれは原点回帰なのかもしれないが、承認欲求の強さと共に言葉が持つ意味と他へ与える印象と意味とのバランスが崩れてしまい、今だからこそ原点回帰したほうが良いのではないか、と思っている。

フリーランス、個人事業主、独立。
大変だね、とか、すごい、とか、私には無理、とか。この言葉に対しても人によって色々な印象を受けるだろうが、全くすごくはない。

一人で仕事しますよ、と開業届を出した瞬間から個人事業主になり、これを独立というのならそうなんだろう。起業という言葉も同じように、起業とは自分自身で新しい事業を立ち上げることなので、会社を設立することがイコールではなく、新しい仕事を考えて行動する、という意味である。ちなみに、起業セミナーに大金を払い続け、そのお金で会社設立できるのに全然設立しない自称起業家は、起業家とは言わない。それは多くの人がわかっていることである。起業家だと名乗る人も、そんなにマウントとって何をしたいのか。

少し脱線したが、先ほどの言葉の中にある「立ち上げる」という言葉においても、他人に対してとても大きく自分を見せるものになっていることがある。立ち上げるという言葉を発した人間において、無意識に使っている場合や、その行動と言葉が合っていると思って使っている場合は除き、他人に対して優位に立ちたいという意図で言っている場合は、印象と意味とを正しく捉える必要があるのではないかと感じる。このような場合、スタートや過程、結果を見ることを第一にすれば問題ない。言わないことが正しい人間になれるということもあるのだから。

時代なのか

今の時代、こんなことが当たり前のように溢れている。例えば「〜すぎる」「持論を展開」は、発している立場は違うものの、他人からしたら同じ印象や温度を共有しづらいこともある。

「〜すぎる」は、発している本人が、共有する他へこの思いをわかって欲しいという「思い」で使っていることが考えられるが、本来の意味では、それ以上とか、度を越している、といったものではないだろうか。例えば、女性がSNSで自分の写真をアップした際のコメントで「天使すぎる」と書かれてあるとしよう。近年よくネットニュースの見出しでも見かける言葉だ。

関心を抱いていない人からしたら、天使ではない。天使というのは何の喩えなのかわからないが、そもそも天使ではない。可愛いという言葉だけでは表現ができないからその上(中略)、というように、発する人と受ける人の温度差が違うため、距離を置きたくなることも出てくる。ちなみに私は、冷静に「それをやめろ」と言ったことがある。言った相手は沸騰しててもこちらは0℃なのだから。

「持論を展開」という言葉は、これもニュースで週刊誌がよく使う見出しになっている。持論とは、いつももっている意見、というような意味であるので、これは全ての人に当てはまり、この芸能人が持論を展開したら、他の人とは違うというようなマウントにもなりがちである。言葉を扱う職業の人は、気をつけたほうがいい。「持論を展開」と言われたら「はいはい」と返すよ、私は。

数年ぶりに書いて、しかもだらだらとしてしまったが、シンプルに言うと「(わかったから)落ち着け」だ。

落ち着いて正しく言葉を使えば、正しく伝わる。頑張って言葉で伝えようとせず、仮に伝わらないと感じた場合でも、目に見える情報を容易に補完できる世の中なので、正しく伝わると思っていいので、安心していい。温度がそもそも共有できないのだったら、言葉で全部を表現しようと意気込まなくても良い。正しく穏やかに言葉を伝えれば、ちゃんと伝わるのだから。


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