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陰の物語と陽の物語

 円仁は唐から日本に帰国したあと、人々の期待を上回る能力を発揮して活躍し、歴史に名を残した

 それに対して円載は、唐に二十年あまり滞在し、現地では皇帝の帰依を受けたり、文人たちと交流したりと、それはそれで活躍しつつ、日本に帰国できなかったために日本では現在に至るまで、ほぼ無名のままである。

 更にいうと、円載は「破戒僧」のレッテルを貼られつづけ、悪評ばかりが残っていた歴史がある。

 歴史は事実に基づいて語られなければならない、という謂わば「科学的」な視点が必要であるが、人物に対する評価というのは人によって違うため、これを「史実」であるとか「事実」であるとか一言で言うことはできないはずである。

 円載はなぜ破戒僧扱いされたのか。これは円珍が残した「記録」が、長年「歴史的資料」として扱われてきたことによる。

 円載は、私的に唐に渡ってきた円珍に対して、何かと面倒を見ていた。唐に長く滞在しており、事情にも通じていたため当然といえば当然であるが、とにかく円珍は円載の助力なくしては唐ではほとんど何もできなかったと言っても過言ではない。円珍も円仁同様に帰国後は人々の尊敬や崇拝の対象となり、天台座主にまで上り詰め、歴史にも大きく名を残した。没後は智証大師の諡号を受けている。

 ところが残念なことに、円載と円珍はどうにもならないくらい相性が悪かった。相性の悪さをすべて円載を悪者とする形で、円珍は記録を残した。

 本来は、「歴史的事実」の検証のためには、複数の資料が必要である。歴史が専門外の筆者でも当然のことだと思う。しかし、円載のことに関しては、歴史上に資料が殆ど残らなかった。

 残った史料の一つは、円仁の「入唐求法巡礼行記」で、唐に渡る船旅から円載が天台山に向かうまで、所々に円載のことに関する記載がある。

 もう一つは円珍が残した「行歴抄」で、円仁の「入唐求法巡礼行記」に相当する唐の旅の記録である。

 と一言で言ってしまうには、「入唐求法巡礼行記」と「行歴抄」には、実は大きな開きがある。歴史的な価値としては優劣つけられるものではない。何が違うかというと、文章の書き方そのものにある。

 自分が見聞きしたことを淡々と書いた円仁に対して、円珍は感情の赴くままに書いた、というと極端だが、記録に対する姿勢にはそれくらい違いがある。もう少しオブラートに包んで言うとしたら、「レポート」と「エッセイ」の違い、という感じだろうか。

 もう一つ重要な点として、「行歴抄」は円珍が直接記録した文書ではないということである。その名が示すとおり、後年他人の手により抄録されたものである。それも、時代が違う二人の人物が手を入れているのである。「行歴抄」の基になる、円珍が書いた「在唐巡礼記」は現存していない。

 円仁の「入唐求法巡礼行記」も原本は残っていないが、ほぼ原文に近い写本が残されている。

 歴史の専門家ではない筆者はこの件には深入りしないが、「行歴抄」に書かれていることはすべて事実であるとは思えないし、実際に辻褄が合わない部分もある。

 円珍が優れた仏教者であったことを否定するものではない。最澄なきあとの天台宗を強固なものにした功労者である。

 しかし、歴史上の人物の「人格」や「性格」に関しては知りようもないし、そもそもそれは人によって評価基準が違うのである。そのことを踏まえて、学者でも研究者でもない筆者だから言えるのだが、円珍は直情型というか感情が先行してしまう気質だったと思う。

「大師になれなかった僧侶」の記事に添付した画像は「悲運の遣唐僧」という佐伯有清氏の書籍であるが、この書籍の中で佐伯氏は円珍が残した円載に関する記述は割引いて考える必要があることを述べている。

 しかし「行歴抄」の中の円載に関する記述の正当性を直接的に検証するための史料が存在しない以上、これを「正」とするしかなかった。ただ、それでいいのだろうか、というのが筆者の疑問である。

 全ての歴史上の人物は正しいことだけを正確に記録してきた、などと誰が言えるのか。時の権力者が、自分の正当性を訴えるために、偽の「歴史書」を作ったり、文書を改ざんすることなど、当たり前のように行われていた。公文書の偽造や改竄が犯罪になる現代の日本でも、国家権力がその権力のために公務員に文書の改竄を命じることが起きているわけだから、何をか言わんやである。改竄作業をさせられた人物が自ら命を断っても知らぬ存ぜぬ、で済まされている。話が逸れてしまったが、だから「複数」の「ソースが別」の史料や情報に基づいて検証しなくては、史実はわからないのである。

 円載に関して、いや「行歴抄」だけしかないのにそれを事実としちゃだめでしょ、って言ったところで、そういうツッコミを入れる人は圧倒的に少数派で、さらに言ってしまえば、そこまでして方を持つほど円載は重要な人物ではなかった。だから長年放置されてきたのである。

 ここでようやくこの駄文のタイトルに行き着く。

 活躍し歴史に名を残し、更に現在でも人々に尊敬されている円仁。それに対して、歴史にほんの少し名を残したが、破戒僧扱いされ、正当な人物評価すらされてきていない円載。陽の円仁、陰の円載。そういう位置づけである。

 円載を破戒僧だと思っている人からすれば、この二人をセットで語るのはとんでもないことだと思われるかもしれない。

 しかし、円載が天台山に向かうために楚州で円仁と別れるまで、二人は多くの時間を共有していた。そして、楚州で別れたあとも、お互いの身を案じ、手紙のやり取りをした。会昌の廃仏でお互いが音信不通になっても、円仁は行く先々で円載が無事でいるか、情報を集めていた。

 これは筆者の個人的な考えであるが、最澄に師事し、最澄没後に円澄に師事した二人にとっては、常に兄弟弟子として強い信頼関係があったと考えている。

 決定的に相性が悪かった円載と円珍に対して、円載と円仁の関係も評価しなければ、円載に対する評価も偏ってしまうだろう。

 さらに、円珍の従者として唐に渡った弟子の豊智は、旅の途中で円珍の弟子を辞めて円載の弟子になっている。そのときに智聡と改名した。このことに関しては円珍はほとんど口を閉ざしている。批判するときは自己主張するときは饒舌になり、自分に都合が悪いと途端に無口になる。現代でもそういう人物はたくさんいるし、過去にもそういう人物がたくさんいたはずである。これは明らかに、弟子の智聡が師の円珍に愛想をつかして離れていった、と見るべきであろう。

 智聡がなんらかの記録や文書を残していたら、とまたもや夢想してみる。円珍のもとを離れ、円載が没するまで、円載の弟子でありつづけた智聡は、円載をどう評価していただろうか。敬愛する師が、元の師の残した文書によって、後世に亘って破戒僧扱い、悪僧扱いされつづけたと知ったら...

 円仁もまた然りである。多くの時間を共有し、兄弟弟子として強固な信頼関係にあった円載が破戒僧などでは絶対にありえない、と強く主張するのではないか。

 陰の物語たる円載の生涯を知ることで、円仁の陽の物語の見え方が大きく違ってくると思うのは筆者だけではないと思うのである。

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