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荘子から学ぶ芸術の本質

荘子は中国戦国時代の蒙(もう)の人で、「技」を超えた「道」を求めました思想家です。
老子とも並ぶ道家(学派)の代表的な思想家でもあります。
特徴としては豊かな想像力、自由奔放な思考、鋭い洞察力から繰り広げられるお話で、当時から現代まで多くの人を魅了しました。

荘子は自分の思想の中心として「あらゆるものを等しく見て、ありのままを認めること(万物斉道(ばんぶつせいどう)」という思想が存在します。
そして人間の言語や思考が差別と対立をつくりだす事に注目しました。
彼(あれ)と此れ(これ)や是と非などがそうです。
自分が此れという時、相手からは彼となり、「あれ」と「これ」は反対になってしまいます。
何かに「良い」としたとき、その裏側では「良くない」ことを同時に判断しているという事です。
つまり彼此、是非とは反対というより相対的に成り立ち、互いに依存し合うと説いた訳です。
という事は世界は絶えず対立し、差別的な存在に満ちているという事でもありますが、このような対立や差別を乗り越えて等しく見て、あるがままに肯定する事を提案しました。
「人間が他者と本当に出会う道はそこから開かれる」と荘子は考えました。
荘子が言う理想的な人間とは、言語と呪縛から解放され、対立や差別の心を持たずに他者と生き、他者と一体になる。
他者のなりゆきに身を任せて心を自由に遊ばせる状態です。
そしてその境地に達した人間を「逍遥遊(しょうようゆう)」と言いました。

ここまで僕は全く異論がありません。
さらに荘子は芸術家の精神や創作活動について語るお話も多くあります。
荘子の芸術論「真の画工」で、芸術創作の出発点は自由な精神の追求にあると語っています。
世間のルールや固定観念による制約や束縛から解放され心身ともに自由になることが、創作活動の条件であり始まりであるとしています。
(間違いない。※独り言が漏れる)
荘子が追求するのは「技」ではなく「道」で、今日我々が芸術という言葉の語源に技術の要素が含まれているように、技術や技巧から離れた芸術は考えがたいものですが、しかし技術や技巧がそのまま芸術になるわけではありません。
技術や技巧にどのように芸術が帯びて行くのか?
それははからいの心を捨てて、自然本来の筋道に作業するところにあり、それによって技は、技以上のものへと昇華します。

得失や名誉、成功や失敗など心を乱すものを忘れ、最後には自分の手足があることさえ忘れる無我の境地に達する。
このような荘子の思想と芸術論は、芸術家が到達した理想的な精神境地を示すものとして、後代の芸術理論および作品制作や鑑賞に大きな影響を与えました。

結論、荘子に対して共感しかありません。
こういった偉人と時代を経て出会える喜びと同時に芸術の奥深さに溺れそうです。
芸術って素敵。


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