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無関心という美しさ

美とは何か?
を定義づけるのは難しい。
しかし無関心であるという事が、美を堪能するうえでは重要な気がしてならない。
言い方を思いっきり雑にすると、「皆がいいと言ってるから良い!」という感覚に疑問があるのだ。

本質的な美を求めている人は地球上にどれくらいいるのだろう?
そんな疑問が頭を過る。
というのも話題にあがる芸術作品は同時に巨額な金額と共に目にする機会が多い。
つまりは資産価値があり投資の対象となっているのだ。
既に故人である人の作品は本人の意思とは関係なく、それらしい真実が並べられ貴重だと伝わる。
それはそれで投資対象としての価値は良いとして、本質的な美を求めて所有しているオーナーはどれくらいいるだろうか?
美術の教養があっても、本質的な美を追求している人はどれくらいいるのだろうか?

教養などなくとも目の前の景色や何気ない日常での瞬間に対し、「なんかいいなー」という感覚が本質的な美であると考えている。
プラトンの哲学の中に「美のイデア」というワードが出てくるが、その概念に近いものなのかもしれない。

「なんかいいなー」という対象物に対して、
本来はどういうものか?などの知識は不要なのである。
それはただ、なんかいいなーと感じる対象物が目の前にあるだけ。
こう考えると美の定義は出来ないようだが、不思議な事にそうでもない一面もあるのがまた美と何だろう?という事になって混乱する。

私はこの桜が好き。
あなたはあの桜が好き。
でも、この桜が美しいのはあなたにもわかるでしょ?
という部分だ。
美には共感できる面積があり、そこの面積が重なりあっているものが一般的に価値があるとされているのはないだろうか?

しかしこの面積に重なり続け過ぎると、「美」の本質を見失ってしまう。

大切なのは「なんかいいなー」という感覚で、それはアカデミックな「美」や「知」から独立している状態。
つまり「美の自立性」が成り立っているのだ。

纏めると、美の自立性の源泉は「なんかいいなー」という感覚で、それは「美」や「知」から独立した状態。
即ち、美しいこととは無関心であること。

と言えるのではないだろうか。

僕はそんななんかいいなーを最重要として絵を描いている。

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