長澤翼の対話(第4回)
この絵は同じ時間軸を描いたものではなく、この舞台で起きている別時間の出来事を描いているのではないか?
画面には4つの時間軸が見えてくる。4つというのは
①画面左側のカエルとサルの時間
②画面中央やや右側のウサギと狐の時間
③画面右側ウサギとカエルとサルの時間
④画面中央付近上側のウサギとサルの時間
である。
画面左側の木にはフクロウがいるが、これはどの時間軸とも切り離された存在で、ここで起きている全てを俯瞰して見ている。
フクロウの視点は鑑賞者へ向き、まるでこの物語を代弁しているようにも伺える。
では各時間軸の様子を考えてみよう。
①は上下関係においてはカエルが上のように伺える。サル村の長がカエル村の長のところへ伺って雑談をしている様子。
互いの村の近況報告や課題などを話している。種族は違うが課題は似ているなーという表情が伺える。
②は作家と編集者。作家のところへ編集者が伺っている場面。表情から余裕を感じるので、原稿締切りまでは余裕がありそうだ。この絵巻の完成の過程を表しているのかもしれない。
③は異種交流会の様子。サル、カエル、ウサギによる違う種の交流会である。交流会はまさにこれから始まろうとしていて、丁度サルがやってきたところ。帽子を被っているウサギとサルは顔なじみのようだ。異種交流のおかげでこの世界の平和は保たれている。
④は娘のように可愛がっていたキツネが嫁ぎにいく場面。父親的存在の猿は嬉しさと寂しさの感情が帯びている。背後にいる小さなキツネは姉狐の弟。
どういう状況なのかあまり把握はできておらず、姉の晴れ姿に弟はソワソワしている。
①~④は別の時間軸だが、共通して描かれているのはこの島の日常と平和である。
高校生らしき女性が横たわっている。倒れている場所はアスファルトに白線ということを考えると駐車場ではないだろうか?
なぜ少女は駐車場で横たわっているのだろうか?寂しそうな悲しそうな表情が伺える。失恋?いや違う。これは告白をしようと待ち合わせ場所に向かう途中で起きた交通事故後の一コマを切り取った写真である。右側から差し込む人工的な光は車のフロントライト。駐車場を走行していた車と接触し気絶してしまったのだ。
衝突の衝撃で持っていた花は散った。画面右上から右端中央までのヒビは、この少女の想いを伝えることの出来なかった無念の表れなのかもしれない。
少女のほほには「愛」「恋」のどちらかが浮かび上がっている。「愛」とか「恋」とかの違いはなんなんだろう?
登場人物は二人、少女と撮影者。撮影者はもしかすると遠隔かもしれない。
カメラの存在を全く気にしていない少女。気にしていないのは撮影者がこの空間にいないからではないだろうか。ではなぜこのような構図の写真になったのか、親の心理から考えてみよう。
少女は現在9歳の小学3年生、両親は非常に多忙で1日だけ家を留守にすることになった。しかし少女は翌日学校で発表会もあり休むことができないため一人で留守番をしてもらうことになったのだ。親からしたら小学3年生の娘を一晩一人にするのは不安でしかない。そこでは娘が不自由なく過ごせているかを確認する為に即席で部屋の片隅にカメラを設置した。それがこの構図に至るまでの経緯である。なぜリビングだったか?それは少女が一番長く過ごす場所だからだ。
続いて少女に着目をしてみよう。堂々たる姿勢に貫録すら感じる。
夜20時頃就寝前、テレビをだらだら見ながら歯を磨く姿は、親のいない一時の時間を謳歌しているように見える。
カバンやパジャマもその辺に放り投げても、今日は誰にも怒られない。
夜更かしもできる。なんてぼーっと考えながらテレビに夢中で時間を溶かしているのである。
親も少女も思った。意外と一人でなんとかなるもんだ。
⬛︎この活動を通じて伝えたいこと
アートとの対話を通じ主体性を育みながら「考えることの楽しさ」を伝えていきたい。それは「正解のない問い」に向き合う姿勢を養うことでもあると考えております。
対話型鑑賞はアートだけでなく、ビジネスや教育の場でも活用できます。
「教える者、教わる者」の関係を越え「正解、不正解」の枠を越えて一緒に多様的に考えることの重要性を感じています。
■追伸
実際のアート対話会の様子はこちらからご覧いただけます。
いただいたサポートはHITOMOJIのコンセプトである“想い出の一文字を形に”を実現する為の活動資金として活用致します。