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【インドネシア・ガラハン村滞在記 その1】それから23年。涙と笑顔。

ジョグジャカルタから電車と車で約12時間。
ジャワ島のほぼ東端に位置するガラハン村という場所に行きました。

そこは今から20年以上前の1996年、
一人の協力隊の女性が懸命に活動し、命を落とした場所。
それはバイクでの事故だったようです。


実際の事故現場は見通しのいい上り坂。
日本で考えればそこまで危険とは思えないような場所。
事故当時はすでに日が暮れており暗く、
一台のトラックが道で停車しており、それを避けようとして転倒してしまったよう。

23歳の若さで命を落としてしまう。
任期2年の後半、あと4か月で帰国というタイミングでの事故。
本人と、何よりご家族の無念を想像すると、本当に言葉にしがたい悔しさが想像されます。



家畜飼育の隊員として派遣されており、
実際の職場にもお邪魔させて頂き、見学をさせて頂きました。
その職場には日本と分骨されたその方のお墓もあり
お線香を手向けました。

大好きな村の大好きな職場に眠る彼女は、きっと心地いい風と動物の鳴き声に包まれて喜んでいるんだろうな。そうであって欲しいな。



また、現地の小学校の図書室へ。
ここは遺族の方の意向での寄付・寄贈によって作られた場所。
本も寄贈し現地の子供たちの学習機会に役立っている。
図書館の中には当時の写真や、彼女の笑顔の写真も飾られていた。



そして本当に子どもが多い。
外国人である私たちに興味深々で、
恥ずかしがって遠くから見ている子もいれば、笑いながら近くに寄ってくる子も。
みんな友達。屈託なく笑い、走り回る。

道行く大人も笑顔で会釈をしてくれる。
じっと見るだけの人も、こちらから声をかけると笑顔を返してくれる。
近くに住む人は全員顔見知り。だからどの子がどこの家の子供かも分かる。
夜は真っ暗になるけど、危険は全く感じませんでした。



村には川があって、そこで洗濯や水浴びをする。
その隣では子供たちが釣りをして遊んでいるかと思えば、
時にはバイクがその川を横切ったりする。
それが普通。この村の日常。



夜には当時彼女と交流のあった方のご自宅に1泊させて頂きました。
電気も水もある、テレビもトイレもお風呂もある。
お世話をしてくれたお母さんは彼女とすごく親しくしていた方。
当時その人は中学生。お姉ちゃんのように慕っていたんだろうなあ。
「彼女にマドゥラ語(その村で話されている現地語)を教えたのは私なの!
 彼女が来た時は電気もこの道もこの家もまだなくて畑ばかり。
 最初に村に来たときは肌が白くて村人みんな不思議がってたけど、
 川で水浴びしたりしてどんどんみんな彼女と親しくなっていったの。
 私は毎日放課後に彼女と会って村中を散歩して、夜には家にも泊まっていったりしてた!
 すごく仲良くしていたの。」

当時を思い出して嬉しそうに笑顔で、そんな話をしてくれました。



23歳で異国の地で亡くなることはどれだけ無念なことか。
ご家族の悲しみを思うと本当に苦しくなる。
だけど亡くなってから20年以上経った今でも、こうやって多くの人の心に生き続けているのは
言葉は正しくないかも知れないけど、少し羨ましくも思ったりします。
そんな活動が出来たらと思うと同時に、
必ず生きて帰ろう、
そう強く思った一日でした。



(※note慣れていないせいなのか…コメントうまく返信できません…なんでーーーーー!!「一時的に出来ない」みたいなコメントが出てしまいます。。解決方法分かる方いらっしゃれば教えて下さい…)

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