水の都の護神をみたよ

ネタバレになにも配慮していないので注意。

先日「水の都の護神」のリバイバル上映を見てきました。
私自身もポケモン映画の中で2番目に好きな作品ということあり、この上映をかなり楽しみにしていました。
映画の断片的な感想をつらつらと並べていこうと思います。

上映が始まってすぐに陽気な音楽で意気込みが削がれてしまったが、ポケモン映画は最初に同時上映の方を流すんだったかと懐かしさも復活しました。
星空キャンプ然り、同時上映のショートムービーは終始ポケモンたちが普段よりもキャラ立ちしているようで、個人的には結構好きなんですよね。
そしてピカチュウ好きという観点からもかなり良い。
ピカチュウのあのお兄ちゃん的ポジションにはグッときます。というか理想的なリーダー?お兄ちゃん?じゃないですか?
特段でしゃばるわけでもなく、先頭を突き進むわけでもなく、個性が強いポケモンたちに若干振り回されつつも笑ってフォローに走る。ピカチュウ自身も別にまじめの堅物というわけでもなく、時々自らおどける場面もあってお茶目な一面が垣間見えるところにもかわいいがあふれ出します。
私自身、お兄ちゃん属性が好きということを差し引いても、ピカチュウの性格はチャーミングだし頼もしい。

なんてことを噛みしめていたらいつの間にか本編の水上レースが始まっていた。
このシーンだけでもかなり見ごたえがある。
ただのストーリへの導入といった役目だけではなく、純粋にこのシーンだけでもレースの勝敗やワニノコが上手に進めるのかなとか街の風景が綺麗だなとかわくわくする。
かなり尺は取っているシーンだが、それに匹敵するくらいの見応えはあると思っている。というか、作画が綺麗。

そして私がこの映画が好きな理由はラティアスの可愛さ。
人間に化けているときだけでなく、ポケモンの姿の時も表情や行動、声まで可愛いんです。サトシを気に入ってから遊びたい、一緒にいたいという気持ちが溢れだしているかのようです。
やっぱり素直なキャラクターには好感がもてますよね。
ラティオスだって好きなんですよ。あのおすましな表情の下にラティアスへの愛情が込められているのが声や行動で分かります。
怪盗2人に襲われたときも、ポケモンを捕獲するネットにかかって自由に動けなくても痛くても、ラティアスにネットを当てさせるものかと2度も自分から当たりに行く姿から、意地でもラティアスは逃がすんだといった想いが感じ取れます。
あの苦しそうな声は聞いているこちらまで辛くなります。

そしてこの映画が記憶に残っている理由の一つとして命が失われたからだと思います。街やラティアスを守るために自分を犠牲にしたラティオスの存在は子供の私にはとても大きかったのでしょう。
その犠牲は大人になってみてもやはり大きかったです。

改めて映画を見直すと、細かい設定などにも目がいって面白かったです。
ラティオスを使った装置は街を災いから守ってくれたと伝説では言われていました。その災いは戦争だったのではないかと他の方の考察で書かれていました。もしそれが正しければ確かに街に張り巡らされた柵は住人を外部の敵から守ってくれるものに見えます。疫病などの内部から発生する災いではあの柵は意味が無いからです。
考察サイトを巡っていると、昔の街の人々がラティオスやラティアスの犠牲が前提の装置を作ったなんて恐ろしいと書かれている方がいらっしゃったのですが、個人的には少し違う気がします。
おじさんが言っていた伝説では、”悪しきもの”がこころのしずくを使うと、こころのしずくは壊れて街が消えてしまう、と言っていたので、装置もしくはこころのしずくを正しい者が使えば、ポケモンたちが犠牲にならずに済んだのではないかと思います。勝手な希望ですが。
ラティオスラティアスに救われた街の人たちが、恩人であるポケモンの犠牲を前提にするものなど作らないように思うのです。

そう考えると怪盗たちの罪は余計重く感じてしまいますね。
彼らが私欲のために動かなければ命が失われなかったはずなのですから。
だから余計にあのエンディングはいただけません。
ラティオスという尊い犠牲を出しておきながら、刑務所では反省することなく次の獲物を探している。自分のやったことが理解できていないようで腹が立ちます。
大人になってから見たからこそ、怪盗と同じ大人になったからこそ、あの部分にはかなり拒否反応を抱いてしまいました。

また最後のシーンで、ラティオス2匹とラティアス1匹が街に向かって飛んでいくシーンを見て、最初はまたラティオスとラティアスたちで街を守るんだなと考えましたが、すぐに恐ろしくなりました。
え、そんな早く代役を用意できるの?と。
命をはって街を救ったラティオスの代わりはいくらでもいるぞと捉えてしまい、街の護神は派遣性なのかと辛くなりました。しかも今回は2組体制。
どうして3匹が街に向かったのでしょう。
たとえ派遣性だとしても、街にはラティアスが1匹残っているので、ラティオス1匹だけ送ればバディを組んでまた街を護れます。
どうしてわざわざもう一組派遣したのか。一度街の護衛を失敗したものは信頼が失われて、2組体制になってしまうのでしょうか。
そこに絶対製作者の意図が組み込まれているはずなのですが、確証をもてる考えは思い浮かびませんでした。
意味も無しにわざわざ3匹にしないもんね。

お話全体を見てふと感じたのはストーリーの広がりが若干慎ましやかだということ。街が大破したり大規模な戦いが発生したわけでもないので、ストーリー展開の規模感覚はややコンパクトにまとめられた印象。こどもたちがメインターゲットだからかな。
エヴァンゲリオンなどを見てきた大人としては少し物足りなかったけれど、逆に風呂敷の広がりをそれくらいに収めたからこそ、あの上映時間に収まっているわけだからやはり結果としてちょうど良いのだろう。

最後の締めくくりのシーンでもやっとしたものはありましたが、大人になって映画を見たからこその発見だったのでしょう。
しかしこの映画は、ラティアスとサトシの追いかけっこをしているシーンで360度ぐるぐる回る素敵なカメラワークがあったり、街の雰囲気が本当のヴェネツィアのように美しく活気に満ちていて、水との共生をしている様子が素敵に描かれているのです。

改めて大人になってからポケモン映画を見ると、カメラワークのうまさやキャラクターの実直さを痛感するなとしみじみしました。

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