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8【連載小説】パンと林檎とミルクティー~作家・小川鞠子のフツーな生活日記~

8)恋の顛末はこれですか

 6枚切りの食パンの上に、とろけるスライスチーズをのせて、焼く。
 パンの香ばしい香りが漂ってきて、チーズがぷくぷく溶けてくる。
 プチトマトを、思いきって5個だしてみた。
 牛乳をたっぷりあたためて、ミルクティーを作る。今日ははちみつを入れてみよう。
 とてもゆったりした気持ちで、ニュースでも見ようかとテレビをつけた午前10時すぎ。ニュースはないか、と、情報番組をぼうっとながめていた。

 クマの話題と、この冬のインフルエンザの話題。インフルエンザの予防接種は受けた方がいいかな。注射キライだけど。
 3個目のプチトマトに手を伸ばしたときだった。
 と、テレビ画面の上の方に「ニュース速報」の文字。

「〈芸能人某氏〉が傷害の容疑で逮捕されました。」

 え。
 わたしは、持っていたプチトマトを床に落としてしまった。
 〈芸能人某氏〉は、ずっとずっと追いかけてきた俳優で、昨日もネットフリックスでドラマ全20話を一気見したばかり。
 逮捕?
 テレビでは、そば屋さんの紹介が続き、〈芸能人某氏〉についての続報はない。では、と、スマホで検索してみた。
 ネットニュースでも逮捕された事実のみが表記されているだけ。何もわからなかった。それにしても、傷害ってなんだろう。

 ミルクティーを飲もうとマグカップを手に持ったけれど、手が震えて口元まで持ってくることができない。あきらめて、マグカップを置く。
 唇もぶるぶる震えてきた。
 床に落ちたプチトマトを拾う気にもなれない。
 どうしようどうしよう。
 どうしようもなにも、できることなんかないのに、どうしようっていう気持ちだけがふくらんでいく。
 混乱。
 動揺。
 困惑。
 
 口が自然に開いてしまい、急激に水分が失われてゆく。
 喉の奥までからからなのに目の前のミルクティーが飲めない。
 手も震えているから。
 どうして。どうしてどうして。

 あまりにも喉が渇いて、のどの渇きと手の震えの葛藤の中、乾きが勝ってなんとかミルクティーをごくごく飲むことが、できた。
 スマホでまた検索してみると、逮捕の詳細がわかった。
 〈芸能人某氏〉は、同棲している彼女が別れて出ていくと一方的に告げられて、逆上して殴ったらしい。実は彼女は妊娠していて、もちろん父親は〈芸能人某氏〉なんだけれど、身を引くつもりで別れることを決意したとのこと。
 出ていくときに彼女の両親が迎えに来ていて、殴られてすぐに通報、逮捕となったのだった。

 ばかだなあ。
 詳細を聞いて、そう思ってしまった。
 短絡的でばかだなあ、と。
 〈芸能人某氏〉って、探偵とか作家とか、わりと知的な役が多かったんだけど、本人はばかだったのか。
 いい演技してたのに。あの連ドラは、すごくすごく好きだったのにい。
 きっと、もう、彼をテレビやネットドラマで観ることはできなくなる。
 もう、彼に会えない。

 ぎゅうううっ、と、胸の奥から何かが締めつける。
 もうだめだ、わたしが。

 わああああああ!
 心の底から声を出した。
 同時に、ぼろぼろと涙がこぼれた。
 体は渇いていたはずなのに、まだこんなに水分があったのか、と驚くくらいぼろぼろと泣いた。
 子どもだってこんな泣き方はしない、ってくらい泣いた。
 
 もう会えない。
 もう彼の演技を見ることもない。
 もう、彼の動向がわからない。
 もう、想っていても何も生まれない。

 泣かずにはいられなかった。
 どれくらい泣いていたのかとあとから考えたら、夕方になって編集者から電話があって、ぐずぐずに泣いててろくに返事もできなかったくらい。そのあと、あわてて編集者と仲の良い作家がきてくれて、翌日の昼までいてくれた。
 余計なことは聞かずに、ただ二人で交代でわたしの背中をさすってくれた。ありがたかった。
 二人が忙しいのはわかっていたけど、きてくれたのはうれしかった。迷惑かけてるとわかっていたけど、いてくれてほっとした。

 二人がいてくれた翌日の昼まで、わたしはただ泣いていた。
 だんだん涙の量が減っていくにつれて、頭の中も冷静になってきた。
 目がはれて、そういえばお腹もすいた。
「ネタだよ」
 帰り際、作家はひと言そういった。
 その感情をネタにして、小説が書けるだろうという意味で。
「企画書」
 帰り際、編集者はひと言そういった。
 つまり、小説の企画書を書け、という意味で。

「わかった。ありがと」
 わたしもひとこと返して、まずは寝ると決めた。
 こうして、熱病のような恋はあっけなく終わった。


つづく
 
 

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