【小説】ネコが線路を横切った16
2杯目はブレンドで、マスターの人生を聞く
「マスターは、あれからどうしてたの?」
熱いブレンドを飲みながら、春海は聞いた。
カップを拭いていた手を、マスターは止めた。
「どうもなにも、ずっと西洋居酒屋をやってたよ」
「そうなの」
「ただ、俺はずっとあの場所で店をやっていたかった」
「どうして?」
「この町を離れた人がいつかまた戻ってきたときに、以前と同じ店があるって、いいものだろうと思って」
いうと、マスターは拭き終わったカップを棚の上に乗せた。
こぽこぽ、と、お湯が沸く音だけが店に響いた。
―――マスターは、ずっとわたしが戻ってくるのを、待っててくれたのかもしれない。
でも。
と、春海は思う。
作家としてデビューした時は、戻れなかった。
バイトで自分の生活だけを支えた時期も戻る時間はなかったし、結婚して出産したあとも、日々の生活に夢中で、戻ろうとは思わなかった。
離婚した時もマスターのところに行こうとは思わなかった。
自分で何とかしようとだけ思った。
「この喫茶店も3年目でなんとかやってるけど」
「前の西洋居酒屋、なんでやめちゃったの?」
「建物が古くなって、壊すっていうから」
「更地だったよね」
「ああ。また、ビルを建てるらしい」
「また向こうに戻るの?」
「どうだろう。テナント料が高くなるからたいへんだな。こっちにも慣れたし」
「もしかして、体こわした?」
「こわしたってほどじゃないけど、肝臓はよくない」
そういえば、マスターはお酒も強いし、当時はタバコも吸っていた。
「それより、これからどうするんだ?」
「これから」
「今の仕事を続けていくのか?」
「そうね。ファミレスの副店長は、いい仕事だもの」
「どこが?」
「人間観察できる」
おもしろいなあ、と、マスターは笑った。
「わたしね、また小説を書こうと思って」
そう。
また、創作する。
書くんだ、と、春海は心の中で改めて自覚した。
つづく
※この物語はフィクションです。
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