【小説】ネコが線路を横切った19
新しいノートを買って帰ろう
春海は、マスターから一冊のノートを受け取った。
西洋居酒屋SINにいる頃、お店についてのアイデアや、常連さんに言われたことをメモしたノート。
「それ、マユさんといっしょに見たよ。メニューのアイデアは、もらったところもある」
「よかった」
「春海ちゃんは、戻ってきて西洋居酒屋をいっしょにやるか、近くに食堂をやるんじゃないかと思った。そのノートを見て」
春海は、作家・藤村架奈になったので、西洋居酒屋を手伝うことも食堂をだすこともなかった。
30年経って、やっと再び訪れた今日は、あの頃と何もかも変わっていた。
「ブレンド、おかわりください」
マスターがコーヒーの豆をひきはじめると、店の中いっぱいにコーヒーの香りが満ちた。
からん、と、音がして春海の後ろにある扉が開いた。
マスターは、いらっしゃいませも言わず、誰だろうと振り向くと、マユがいた。
目尻にしわが刻まれてはいるものの、記憶の中のマユとほとんど変わっていなかった。
「こんにちは。お邪魔してます」
「春海ちゃんなの? ひさしぶり」
マユという存在に、あの頃は強烈な嫉妬しかなった。
今は、マスターにマユがいてよかったと、春海は思った。
マスターは、大丈夫。
3人は、誰も何もしゃべらなかった。
春海はブレンドを飲み終えると、ノートを持って席を立った。
「ごちそうさま」
「また、いつか」
「春海ちゃん、元気でね」
春海は、ほほえんで「喫茶SIN」をでた。
帰りに新宿で、新しいノートを買って帰ろうと思った。
ノートに、小説の人物設定とストーリーの構想を書こう、と。
つづく
※この物語はフィクションです。
実在の場所や団体、個人とは関係ありません。
サポートしていただいた金額は、次の活動の準備や資料購入に使います。