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頭ポンポン男から考察する人付き合いでやってはいけない3つのタブー

あなたは「頭ポンポン男」をご存知だろうか。

「君はいつもよくがんばってるよ」と女の子の頭をポンポンする少女マンガでもお馴染みのアレ。

二次元は虚構を楽しむ世界なので、頭でも肩でも思う存分ポンポンしてくれて構わない。
驚くべきは、あれを現実にやってしまう男がいることである。

その上恐ろしいことに、周りの誰に聞いても頭ポンポン男のほとんどが、ほぼ初対面のような間柄だという。

遠い昔を思い返すと、確かにそうだった。
生まれてはじめて「頭ポンポン男」に遭遇したのはまだ20代の頃。
その垂れ流されるナルシシズムの衝撃に、私は言葉を失った。
一言でいうと、気持ち悪いの極み。

のっけからなんの話だよ、と思われたかもしれない。ごめんなさいね。
書く習慣22日目のテーマが「人付き合いで一番大切だと思うこと」だったのでこの恐ろしくも興味深い体験を紹介しました。

なぜかというと、私が人付き合いで普段やらないようにしていることを、この「頭ポンポン男」がことごとくやっていたことに気づいたから。

気づきは大きく分けて次の3つ。

  1. レッテル貼り

  2. 距離感の無視

  3. 上から目線

ひとつずつ解説していこう。

あんたになにがわかんだよの境地、レッテル貼り

実際に「頭ポンポン男」に遭遇した友人に聞いてみると、みな口を揃えてこう言った。

「あいつら『こうされるとうれしいでしょ?』って決めてかかってくるんだよね」と。私の遠い記憶を掘り起こしてみても確かにそうだった。
なんなら、「それをわかってやっている自分」に酔ってる気配すら感じる。

なにも「誰にも私のことなんてわかりっこない」って斜に構えているわけではない。私だって人並みに自分のことを理解されたいと思っているし、わかり合いたいって気持ちもある。

ただし、私がそう思うのは「女の子は頭ポンポンされるのが好き」と思考停止している相手ではない。

ましてや、そんな相手から「君って素直ながんばり屋さんだね」なんて会って5分でレッテルを貼られるのなんて、まっぴらごめんだ。

「意外性の発見」って人付き合いにおける魅力のひとつだと思う。

怖そうに見えたあの人が、実はとても面倒見がよかった、とか、真面目そうなあの人が実は親父ギャグが大好きなひょうきんものだった、とか。

レッテルを貼る行為は、相手をこうと決めつけて新しい魅力を発見する機会を奪ってしまう。
これは非常にもったいない。

私はギャップを発見するのが好きなので、少なくとも自分から他人にレッテルを貼るような真似はしないでおこうと思っている。

人付き合いでもっとも気を遣う「間合い」の無視

突然知らない人が私の頭に触れ、したり顔で「君はがんばってるもんな」と決めつけてくる。ヒンドゥー教徒であれば、例え子供であっても冗談では済まされない。頭はそれほど繊細な場所なのだ。

まあ私はヒンドゥー教徒でも子供でもないけれど、それでも親しくもない人間に急に体に触れられるのは遠慮したい。

相手の体に触れる、という極めてデリケートな行為が許されるのは「触りたい」人と「触られる」人の心の距離がお互いが納得する形で釣り合っているときだけだ。


そして物理的に「大丈夫」と感じる距離感は、心の距離感に比例している。

だから、人付き合いでは「心も含めた相手との間合いの取り方」にとても気を遣う。

どこまで近づいて大丈夫か。
もっと踏み込んでみるべきか。
今は距離を取るべきか。

「どこまで大丈夫か」のラインは人によってまったく違う。
仲良くなるまでは薄氷を履むようにじわりじわりと進んでは、こまめに様子を伺いながら間合いを詰めるしかない。


もちろん例外もいる。
俗に言う「人たらし」。こちらはじわじわと距離をつめるというよりも、あっという間に相手との心理的距離を見定め、一気に間合いを詰める。
とても鮮やかで、しかも見ていて気持ちがいい。

「頭ポンポン男」と一体なにが違うのか。

相手が自分のことを受け入れてくれそうか、懐に飛び込む前にきちんと見定めができているか、間合い自体を無視しているかの違いじゃなかろうか。

どちらも急激に間合いを詰めているように見えるが、相手に認められて懐に入るのと、相手を無視して懐に入り込もうとするのでは天と地ほどの差がある。

残念なことに私は「人たらしのとんでもスキル」は持ち合わせていない。

そのため相手との間合いを見定めるのためには、アンテナを張って相手の反応を丁寧に拾っていくしかない。
大変ではあるけれど、相手を無視して、一方的に自分の間合いを押し付けるような真似はしたくないので地道に仲良くなれるようにコツコツやるしかない。

苦手オブ・ザ・イヤー殿堂入りの上から目線

そもそも「頭ポンポンされると嬉しいでしょ」って、上から見下ろされている感がある。相手は「こうされるの好きだろ?」とこちらのことを決めつけて、簡単に私を手なづけられると思っている。
そしてそういう輩は、自分の方が立場が上だと信じて疑わない。

私が犬なら噛みついてやるものを。

自分に酔っているだけの自分語りなら右から左に流せばいい。
むしろ上から目線の弊害はそこではない。
聞かれてもいないことを一方的に「君はもっとこうするべきだ」などと押し付けてくることだ。

しかも「君のために言ってるんだから」などと自分で自分の言葉に酔っているのだからタチが悪い。
むげにあしらおうものなら「恩を仇で返しやがって」などと逆上するのだから始末に負えない。

私は人生の先輩や、友人の価値観を知るのが好きだ。ときに「あなたならどうする?」と相談を持ちかけることもある。

みんな、私の親であり友であり、人生の師である。もちろん年齢も性別も、育った環境も違う。

ただひとつ共通しているのは、彼らの誰も聞かれもしないことに対にして「もっとこうするべきだ」などと、上から目線で私を見下すようなことは口が裂けても言わないことである。

簡単に私を決めつけたりしない。
自分と相手が違う人間だとわかった上で、助けになろうとしてくれる。
軽々しい「こうするべきだ」なんて上から目線のペラペラなアドバイスなんかじゃない。
言葉の重さを知る人たち。

私もそんな人になりたい。
そのためには、自分の言葉が相手に与える影響をよくよく考えること。
自分がいい気分になるためだけのアドバイスに相手を利用しないこと。
そしてなにより、一段高いところに立って相手を見下ろすような付き合い方を絶対にしないこと。

これだけは魂に刻んでおく。
上から目線、ダメ、絶対。

人付き合いの本質は思いやりという名の想像力を持つこと

「頭ポンポン男」から始まって、長々と生意気なことを書いてしまった。
結局のところ、一番大切だと思うことの答えは「想像力」とでもいえばいいのか。

自分がされたくないことは相手にもしない。
敬意を持って相手に接すること。

今のところ、このふたつを意識して周りと接していて人間関係で大火傷を負ったことはないように思う。

「想像力」から「思いやり」は生まれるし、相手が人でも動物でもそれは変わらない。

なんか、面白みのかけらもない結論に達してしまった。
とにかく「想像力を働かせていこう」ってことだ。

あと、もう絶滅しているかもしれないが、現実世界で初対面でのあなたに頭ポンポンしてくる輩に出会ったらダッシュで逃げてほしい。これだけは約束して。



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