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「秋色フェルマータ」第12話

 土曜日の夕方、聡の家で遊んでから外に出ると、もう暗くなっていた。さらりとした夜風がパーカーの首筋を撫でる。

金木犀の甘い香りが薄らぐと、急に冬が近くなったように感じる。自分と同じ名前の季節が終わるのはちょっと寂しい。

 椿屋敷の前を通った。椿の生垣の切れ目に大きな木製の門がある。珍しく人影があった。

「志摩?」

「あら、秋くん」

 志摩はびっくりしたように振り返った。椿屋敷の門は開かれていた。重厚な玄関と手入れされた日本庭園が覗いている。

「偶然ですね。こんな時間にこんなところで……おうち、お近くですか?」

「うん。すぐそこ」

「そうなんですか。そういえば、初めてお会いしたときも私服でしたね」

 夏休みの最後の日のことだ。学校の外で志摩に会うのはあの日以来だが、志摩は今日も制服だった。なぜだろう。尋ねようとしたとき、近くから猫の鳴き声が聞こえた。

「あら、迎えにきてくれたの?」

 志摩は柔らかな声で言い、その場にしゃがみこんだ。よく見ると、志摩の足元に黒い猫がいる。暗闇にまぎれて見えなかった。猫は目を閉じ、志摩の手に頭をこすりつけた。

「志摩の猫?」

「ええ、可愛いうちの子です。ほら、秋くんにご挨拶は?」

 志摩は黒猫を抱き上げた。飼い主の言葉を理解しているのか、猫はじっと俺を見つめた。きれいなオレンジ色の瞳だ。

「ふうん。わざわざ出迎えにくるなんて律儀な猫だな」

 実をいうと、猫は好きだ。思わず手を伸ばした。これが間違いだった。

「いたっ」

 こいつ、引っかきやがった。夕焼け色の瞳が細くなった。意地悪く笑っているみたいだ。

「大丈夫ですか?」

 志摩は慌てたように「ちょっとすみません」と言って、俺の手首に触れた。雪のように白い手はひんやりしている。俺の手の甲にはくっきりと赤い傷が走っていた。

「やだ、どうしてこんな……本当にごめんなさい。いつもはこんなことする子じゃないのに」

 志摩はハンカチを取り出し、ためらいなく俺の手に当てた。

「お、おい、汚れるぞ」

「構いません。消毒もしないと。よかったら寄っていってください」

 怪我をした手とは逆の手を引かれた。そのときだ。

「文ちゃーん、入らないの?」

 聞き慣れた低音ボイスとともに、椿屋敷の玄関からよく知った人物が出てきた。

「えっ、九条先生!?」

「あら、秋くん! 奇遇ねぇ。文ちゃんがなかなか戻ってこないと思ったら。なあに? 二人でこっそり待ち合わせ?」

「違えし!」「違います!」

 俺と志摩の声が揃った。

「今ここで偶然会って……てか、その格好……」

「あたしの着物姿が見られるなんてついてるわね」

 九条先生はウインクした。深い藍色の着物をまとっている。俺には何が何だかわからない。

「えっ、なんで先生が志摩んちで着物着てんの? えっ? なに? ドッキリ?」

「落ち着きなさい、少年。ドッキリじゃないわ。あたし、高堂先生のお茶の生徒なのよ。高堂先生って文ちゃんのおばあさまね。今日はお稽古だったから着物ってわけ」

 愕然とした。まさかそんなつながりが。そこで俺は思い出したことがある。志摩が転校してきた直後のことだ。

「あっ、だから志摩! 九条先生のオネエ口調聞いても驚かなかったのか!?」

「ちょっとぉ、オネエ口調ってやめてくれない? お姉様と呼びなさい」

「お姉様口調を」

 素直が取り柄の俺はすぐに訂正した。志摩は「ええ、転校する前から祖母の教室でお会いしてましたから」と答えた。

「九条先生が高校の先生をなさってることは聞いてましたが、萩塚にいらっしゃることは転校するまで知りませんでした。びっくりしましたよねぇ」

「ほんとよねー。世間は狭いわ」

 志摩と九条先生はころころと笑い合った。会ったばかりにしてはずいぶん気が合うなと思っていた。昔からの知り合いだったのか。今さらながら納得だ。九条先生は俺の手を見て、笑いを引っ込めた。

「どうしたの、その手。怪我?」

「この子が引っかいちゃったんです。珍しいですよね。もう申し訳なくて」

「えっ、ほんと? 珍しいわね。秋くん、何したの?」

「いや、何もしてねえよ! 可愛いからつい手伸ばしたら、ガリッと……」

「それね。初対面のレディに許可なく触れようとしたの? そりゃ引っかかれるわよ」

 レディなのか、この猫。猫は志摩に抱かれたまま大人しくしている。九条先生は呆れたように首を振った。

「しょうがない子ねー。ちゃちゃっと消毒してあげるわよ……と思ったけど、あたし、お稽古のお片付けを手伝わなきゃ。文ちゃん、代わりに頼めるかしら?」

「もちろんです。行きましょう、秋くん。お時間は取らせません」

 志摩に言われるまま、俺は椿屋敷の門をくぐった。長い廊下を進み、いくつかの角を折れ曲がる。本当に広いお屋敷だ。志摩はようやく立ち止まり、ふすまを開けた。

そこは茶の間のようだ。広々とした和室にテレビや箪笥が置かれ、中央に長方形の座卓が据えられている。志摩は俺に座るよう促し、自分は救急箱を持ってきた。

 猫は志摩の隣に陣取り、ゆったりと寝そべった。明るい部屋で見ると、黒い毛並みがツヤツヤしている。大切にされているのが伝わってきた。

「でもびっくりしました。秋くん、ご近所さんだったんですね。ここから何分くらいですか?」

「五分くらい」

「本当にお近くですね!」

 そうか。俺は聡に聞いて知っていたけど、志摩は知らなかったのか。そりゃあ驚くはずだ。

「そうだ。おばあさんの教室にさ、霧生さんって生徒いる?」

第13話↓


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