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あきらめる練習

名取芳彦 著  SB新書

多くの日本人がそうであるように。
私も無宗教だ。

そんな中でも。
祖母がキリスト教だった事もあってか
キリスト教の幼稚園に通っていたりして…
どちらかと言えばキリスト教贔屓、
だっただろうか。

しかしこの本を読んで、
自分の考え、望んでいる心の状態が
仏教の教えに近い事を知った。

心おだやかに過ごす為の、物の見方や
考え方が仏教の教えなのだ。

諦める事もまた、心おだやかに日々を送る
為には有益な「仏教の知恵」だと著者は勧める。

《「諦める」は、最後までやらずに途中で投げ出すという意味で使われがち。でも、仏教では、必ずしもネガティブな言葉ではなく、物事の本質を明らかにする、つまり「明らめる」の意味を含めた前向きな言葉なのです。》裏表紙より

《日本語でも「諦める」と「明らめる」の語源は同じ。もともと私たちは、物事の本当のあり方を「明らか」にするから「諦められる」という意識が今より強く働いていたのです。》p.4


諦めるべき物事を、実にたくさん提案されているが印象に残った箇所を記しておこう。

●都合通りにならないことを諦めて、物事の本質を明らめる
《仏教の「苦」の定義は簡単明瞭で、「都合通りにならないこと」です。(中略)
 人生が苦ばかりになってしまう理由は、私たちの心が多くの〝自分の都合〟の集合体になってしまっているからです。自分の都合がたくさんあるから苦が生まれるという明白な因果関係を集諦(じったい)と言います。
 ちなみに、苦を生み出す自分の都合のことを煩悩と言います(都合通りにならないのに苦と思わなければ煩悩ではありません)。
 苦をなくすにはどうすればいいかといえば、自分の都合通りにしたいという煩悩を滅すればいいのは明白です。これを滅諦(めったい)と言います。》p.30

《「都合通りにはならない」には、もう一つ、大切な意味があります。それが「都合以前」で、「自分の都合が入り込む余地がない」という意味。(中略)
すべては縁(条件)によって変化し続けるという諸行無常の大原則も、〝そうなっている〟ので、私たちの都合は関与できません。》p.179

●いつまでも完璧を求めるのを諦めて、これでよしとする。
《いつ誰が見ても完璧などないのは明らかですから、「今の」「私にとって」と限定して、これでよしとするしかありません。
 いい加減でいいと申し上げているのではありません。自分の完璧を目指すのはいいことです。しかし、完璧などないことを明らかにしておくと、「これでいいか」と思えて、とても楽になれます。》p.73

●善悪を急いで判断するのを諦めて、おだやかな心を持つ
《せっかちな人は、白黒(善悪)をつけたがります。そうすれば物事がわかりやすいからです。しかし、絶対的な悪も善もありません。悪いことをしたのを反省して善人になる人もいます。善だと思ったことが相手、地域、時代により悪になることは往々にしてあります。
 仏教では、やったことがその後、心おだやかになることに貢献すれば善とし、心を乱せば悪とします。善悪は時間的な結果で、やった時点では判断出来ません。
 おだやかな心で暮らすのには、無理に白黒をつけたくなっても「今のところは」ということが前提だと知っておくのが大切でしょう。》p.89

●時には続けることを諦めて、新たな道を模索する
《大人になっても、子どもの頃に教わった「継続は力なり」を何の疑いもなく金科玉条のように思ってる人がいます。しかし、続けていても、周囲の状況や心のあり方が変化するのは明らかです。それに対応するために「続けるのを諦める勇気を持つ」という選択肢はとても大切なことです。》p.117

●時には勝敗をつけるのを諦めて、おだやかに生きる
《今の私にとって、「戦うのを諦める」は、勝ち負けに関わらないところに自分の心を置き、心おだやかに生きていくという意味です。》p.157

●知らないことを諦めて、自分が知らなかった現実を素直に受け入れる。
《わからないことを「わからん」としておく勇気は、とても大切なのです》p.191

●死を心配するのを諦めて、仏さまにお任せする
《生と死を区別せずに、大きな命の連続性の中で与えられたものとして自分の生を堂々と生きる》p.198


☆追記☆
自分の記録用ブログとは言え、ずいぶんと長くなってしまった😅根気良く、読んで下さった方がおられましたら心より感謝致します😌🙏

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