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風姿花伝

世阿弥 著  水野聡 訳  PHP研究所

歴史の授業で題名だけは知っていた、こちらの本を
まさか読む事になるなんて、思ってもみなかった笑

興味を持ったのは、齋藤孝さんの著書で紹介されていたから。

能という、その場限りの芸の極意を一族に伝える為に書かれたもの。でありながら

それぞれの課題は現代の仕事にも通じるので、自分に引きつけて考えやすいとの事。

何よりジャパネットたかたの高田明さんが愛読している、というのがとっても気になった!

「社長がいつも話していることと同じことがこの本に書いてあります。」と言って社員に手渡されて以来、愛読しているという。

読む前は、「秘すれば花なり」「初心忘れるべからず」などの精神論的な教えが書かれてあるのかと思っていたが…これがかなり具体的で驚いた。

それぞれの年代においてのやるべき事、心構え、注意点。客層や公演の時間帯(昼か夜か)によっての演じ分け。現代のHowTo本と同じくQ&Aコーナー。

ガッツリ「能」の本だ。現代の仕事に一体どこが通じるのか?と思ったが。

再度読み返して納得である。訳者あとがきにもあるとおり…仕事以外にも、あらゆる芸能、スポーツ、教育、に当てはめる事が出来る!

以下、気になった箇所を記しておく。
とともに自分の考察、感想を( )に書いておこう。
何度も言うように、当ブログは自分の記録用なので、ここから先は単なる文章の羅列となり、面白くないと思う笑

当記事をお読みの方、ここまで読んで下さってありがとうございます😊 ここから先はお時間ある方のみで結構ですので、どうかお気遣いなく…👋


《稽古は強くあれ、しかし慢心はもつな、との教えである。》p.8  (芸事はもちろんビジネスであれスポーツであれ…慢心は災いの元だ。)

《この芸能においては、おおよそ7歳が初稽古となる。(中略)なにげなくやりだしたなら、その子の心のままにやらせてみることである。こと細かに、良い、悪いと教えないこと。》p.10
(全ての子どもの習い事について言える事だ。まず面白さ楽しさを知ることが大事。楽しければこと細かに言わずとも自ら鍛錬するようになる。)

12、3歳について→《姿形が子供であるから何をしても幽玄に映る。(中略)しかしこの花は、まことの花ではない。ただ、時分の花というべきだ。(中略)基本の技を大事に守るべきである。》p.11-p.12

24、5歳について→《名人相手の芸くらべにも、当座の花ゆえのもの珍しさで競い勝つこともある。それで観客も喝采し、自身も得意になりだすのだ。このことは当人にとり、まったくもって仇となる。(中略)本来の実力以上に思い上がるなら、もともと備わっていた花をも失ってしまう結果となる。よくよく心得ること。》p.14-p.15

44、5歳について→《能は下がらずとも、自然の摂理によりますます年老いて、身に咲く花も舞台の花も失せるもの。(中略)この年代から、あまりに手の込んだ物真似(演技)はすべきでない。》p.17
(身の丈に合わせる事は何においても大事だ。)

申楽の立ち合い勝負について→《曲数を多くもち、敵の能とは、かけ離れた趣の曲を敵とは違う芸風で演じるべし。》p.41
(例え能力に差がなくても工夫次第で勝てる。スポーツの戦術などにも言える事だ。)

《当人の心にいくら多くの花が咲いていようとも、人の目に映る工夫なくしては、田舎の桜や藪の中の梅が、誰にも見られることなくいたずらに咲き匂っているというだけのことだ。》p.44
(逆に、いくら能力や技術があろうとも工夫なくしては良い結果は得られない。)

《年老いたシテ(演者)で、すでに花も消え古風になってしまった頃合い、若いシテが珍しい花にて勝つことがある。(中略)いかなる名木であろうとも、花の咲いていない時期に、木だけを鑑賞するだろうか。道端の一重桜であろうと、今をさかりと匂やかに咲きほこる初花を見ないだろうか。こうしてたとえて見ると、一時の花であろうと、立ち合いに勝つのは当然のことだ。》p.42-p.43. 
(負けた事に固執すべきでない。「老い」と言う自然の摂理を受け入れるべきだ。)

《そもそも上手にも悪い面があり、下手にもいい面が必ずあるもの。ただこれを見分ける者もなく、本人も自覚していない。上手は名を頼み技能にかくされ自分の欠点が見えなくなっている。下手はもとより工夫せず欠点も見えないので、たまたまある長所にも気付かない。されば上手も下手も互いに尋ねあうべきだ。(中略)下手の良いところを、上手が自分の得意芸の中に取り入れることはこれ以上ない理想的な方法である。人の悪いところに気付くだけでも自分の勉強になるというのに、ましてや良いところについては、言うまでもない。》p.45-p.47
(会社などにおいて風通しの良さが発展に繋がる。新人ならではの視点が仕事のアイデアとなる事も。)

《世の役者どもは、慢心、あるいはものにならないためであろうか、一向の芸のみを得て、多様な芸を知らず、よその芸を毛嫌いする。これは嫌うというより、できぬゆえの腹いせであろう。(中略)あまねく芸に通じ、天下の許しを得るほどの者であれば、どんな芸をしようと面白くなるものだ。芸の基準は各人各様であっても、面白いと感じるところは万人共通のものである。この面白いと感じることこそ花なのだ。》p.67
(ライバルであっても、良い点は真似て吸収し、自分の糧としよう。)

《あまり難解にすぎる芸のみに偏ればまた諸人の評価も受け難い。このため能に初心を忘れず、時に応じ所により、愚かな眼にもなるほどと映るような能をすることがすなわち福となる。》p.70
(顧客満足度について。自分の美学よりは顧客の立場に立つ事が大事。)

《すなわち父観阿弥はどのような田舎や山里のかたすみであっても、その土地の人の好みと所の風習をいちばん心にかけて芸をしたものだ。》p.70
(企業が地域によって商品を変えて販売している原理と同じだ。)

《また一切のことに釣り合いがなければ、成就はない。(中略)よい能を上手が演じ、よい舞台にならないはずがあろうか、と人は皆思いこむものである。が、不思議とそうはならないことがあるのだ。》p.76(バランスの重要性。例えばサッカーで、有名外国人選手や代表歴任選手が加入しても、バランスが悪ければチームとしては強くならない。)

《そもそも花というもの、万木千草四季折々に咲くものであって、その時を得た珍しさゆえに愛でられるのである。申楽においても人の心に珍しいと感じられる時、それがすなわち面白いという心なのだ。花、面白い、珍しい。これらは3つ同じ心である。いずれの花でも散らずに残る花などあろうか。花は散り、また咲く時があるゆえ珍しいのだ。》p.87
(花が美しいと感じる理由なんて考えた事はなかったが…確かに。その時期にしか見られないと言う特別感や珍しさはあるかも)

《花といっても去年咲いた花の種から咲いたもの。能も以前見た芸であっても、物数を究めればその数を尽くすまで久しくかかる。久しぶりに見れば、また珍しいものである。》p.88

《おおよそ年寄りの心というものは、何事をも若向けにしたがるもの。さりながら力なく、五体重く、耳遠ければ、心逸れども振る舞いは叶わないのである。この理を知ることが、まことの物真似である。》p.92 (現代の日常においても、確かにそうだ。中年期に差し掛かる自分にも当てはまり、耳が痛い笑)

《すべてのものみな因果である。(中略)時の運とは恐るべきもの。去年、盛りであれば、今年は花がないことを悟るべし。(中略)これが珍しさの大きな効果である。前回悪かったという因果が、今度はよい方に廻るのだ。》p.97-p.98 (勝ち負けや好調不調について、自分の努力ではどうにもならない時もある。じたばたせずにドンと構える。)

《本来良い・悪いなど何をもって定めるのか。ただ時により用に足るものを良い、足りないものを悪いとするだけのこと。この芸の品々というのも、その時代の人々所々によりその時の遍き好みによって、受け入れられるものが用に足りるため、花となるのだ。》p.100
(最後に人生論。良い悪い、はその時によっても人によっても変わるものだ。自分を信じて、自分がその時々で最良と思える行動、選択を。)




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