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イベントのご案内と、最近気がついたこと

【イベントのご案内と、最近気がついたこと】

先日、年内最後の吉田晋彩先生茶道教室へ。臨川茶室は二週目からお休みに入ります。


12月先生方は、大掃除や樹木の剪定や庭の手入れなど、その時期にやることが多く、私が思い描く以上の忙しさになるようです。

今年最後の掛軸は 「帰去来」。
師 雪底老師が大徳寺の管長を去る時に、一人ひとりに書いてお渡ししたものだそうです。



お稽古の最中、
晋彩先生が共著されている「耆(ろう)に学ぶ」を読み返したこと、差別と無差別について書かれていたところ、目が開かされたことを先生にお話しました。


お客様の位によって道具や所作を変える、「真・行・草」というお点前の違いがあるということ。例えば天皇へお出しする時は、道具も最上級のものを用い、「真」の形の所作で。「真・行・草」のお点前の違いが差別。

しかし、そこには、位の上下の区別なく、気配りが等しいという無差別がある。

差別と無差別を別の言い方をするならば、不易流行(ふえきりゅうこう)、不易(変わらないもの)と流行(変わるもの)が一緒になっている。

春夏秋冬が順番通り巡る理法が不易で、暖冬だったり厳冬だったりの細部の変化が流行。

同じように、人であることが無差別(不易)で、それぞれ一人ひとりが違うのが差別(流行)です。

差別のところで、一人ひとりの違いのところで比べ争うことが苦の原因で、そもそもの“人として”の無差別のところに立つという眼をもつことが大事です。

それでも、差別にとらわれ、イヤなこと、イヤな人と、感情にとらわれてしまいます。差別のところに降りているからです。

無差別のところに立つのができない時は?、

イヤだと思う自分の方に何か問題があることもあり、そこを省みてみる。

自分の思い通りにいかなかったり、自分の都合が悪かったり、自分の身体の調子がよくなかったり、自分の仕事が上手くいってなかったり、周りの人と何かトラブルがあったり、自分の方の問題を省みてみる。

それでもどうしてもイヤなものはイヤという場合は、“私はどうしてもイヤなんだ”と、客観的に眺めてサッと流す。

そんな会話の後、私の眼を大きく開かせてくれたのが、先生の次の言葉。

イヤなことも、それができることが素晴らしい、有り難し。
イヤな人も、その人に出会えたことが素晴らしい、有り難し。

人やモノゴトに好き嫌いの色をつける前の、その一歩前を見ること、

そこに眼を向けることを、眼を開かせてくださいました。

以前、憎しみを抱くほど嫌いな人がいたことがありましたが、
そうだ、天からみたら私たちは皆同じではないか!!

天という無差別と、一人ひとりの違いという差別。

差別ばかりにとらわれず、無差別に目を開くことに気づかせて頂きました。

下座行という修行がありますが、下座とは、その場所から降りて頭を下げること。

イヤなことの前で、イヤな人の前で、私は自分を高くしてはいなかっただろうか?

高くしている頭を下げる、
天のもとでは誰もの存在が同じく等しく尊い。

しかしながら、一人ひとりの違いの差別がなければ、人の本質の無差別に眼が開かない。
無差別は差別となって現れるのです。

差別の向こうの無差別に眼を向けることを、先生に教えていただきました。

私の眼を曇らせていたものを流してくれたのは、

「耆(ろう)に学ぶ」と、
吉田晋彩先生・宗看先生に茶道を学んで、
「耆(ろう)に学ぶ」
https://dokusume.shop-pro.jp/?pid=153744329

「禅と哲学のあいだ」を読み、著者 形山睡峰師の講話を聴き続けてきて、
(「禅と哲学のあいだ」は、この世界の真理、差別と無差別を深く考察されています) 
「禅と哲学のあいだ」形山睡峰著
https://dokusume.shop-pro.jp/?pid=153073590

読書のすすめがオススメする“縦糸の読書”のお陰です。
「読書のすすめ」
https://dokusume.shop-pro.jp/


🌟イベントのお知らせ🌟

【形山睡峰師 講話】12/11(土) 14:00~16:00
「いまこそ、この世界の真理を学ぶ」
https://note.com/tsubaki3103/n/n1885e87aa4f2


【訳者と語り合う「友よ、水になれー父ブルース・リーの哲学ー」読書会】12/11(土)17:00~19:00
https://note.com/tsubaki3103/n/n545e8f6948ef

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