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聞け、山の声

この前、姉と六甲山に登った。ら、ちょっとくさいけど自然の偉大さと人のありがたみを初めて心の底から実感した。

事前に六甲山のことを調べていなくて、遊歩道みたいなものでしょ!と完全に舐めきって、軽装&レインシューズで山に向かった。ロープウェイで山頂に着いたのは15時手前。そこから下山して有馬温泉に向かう計画だった。姉はちゃんとした格好だったので、「その靴だと山に入れないんじゃない?歩けるの?」とロープウェイでの下山を提案してきた。そこでちょっと自責の気持ちが出てきて、「なんでせっかくの六甲登山にこんな無計画で来ちゃったんだろう」とイライラした。挙句、強がって、「いやここまで来たんだし、足で下山しよ!なんとかなるっしょ!」と姉の提案を押し切って入山した。これから起こることをつゆも知らずに。

入山してすぐにバランスボール大の不揃いの岩の階段が、しかもかなりの勾配でつづら折に下へ伸びていて、ちょっと怖かった。でも怖いと感じるのはダサい(何歳だよ)と強がって、一気に弾みをつけて降りていった。六甲の山はさすがに名が知れているだけあって、深く寂びた緑の木々が空高く生い茂っていて、自然の荒々しさを感じる。人間に手入れされている街路樹と違って、まさしく生き死にの世界に、1人1人力強く根を張って日の光を求めて一心に枝を伸ばしている。そこに余裕も惰性もない、ただそうあるべくして在る自然の野生を感じ、人工の都市に慣れた私は少し息をのむ。ここから先は人間の世界ではない。通りたければ自力でどうぞ。という静かな視線すら感じる。

連日の雨で斜面はぬかるんでいて、用心深く足を踏みしめてもたまに滑るから危ない。靴がつるんと滑った時の、あの心臓の不快なドキドキ。原始時代の動物の勘、危険と常に隣り合わせであるという動物本来の性が呼び起こされる。もうここは安全ではないのだ。無事に有馬温泉にたどり着けるという保証もない。レインブーツに軽装というあんまりにも軽率な出立ちで来てしまった自分、そして何より自分の弱さを隠そうとして勢いで入山した自分を、もうすでに悔い始めていた。自分の弱さを隠す?その発想自体がおかしかった。それは弱さではなくて賢明さなんだ。そんなことをぐるぐると考え回しながら下っていたら、ほんのわずかの着地ミスで足首を捻ってしまった。「あ!やったな」と悔いる。当たり前だ。レインシューズなのだから。山の神も、リクライニングにもたれて新聞を読んでいたところを、小さい人間がわあわあ言いながら降りているのをちらと見かけて、やれやれこれだからと呆れたことだろう。

山の日が暮れるのは、女性が、今まで好きだと思っていた男性にある日突然興醒めして好意をさっとなくすほど、早い。くどいけど、つまり本当に早い。そしてそれは、非力な人間には死と同じなのである。振り返ってみよう。あまりの軽装なので、持っているのはスマホのライトだけ。しかも充電残り30%。追い討ちをかけるように、土砂崩れの影響で本来楽に降りられるはずの道が封鎖されており、代わりに小高い山をてっぺんまで登って迂回してくれという。その時すでに17時を過ぎ、太陽は山のずっと向こうに沈み込み、残すは夕焼けの残光のみとなった。ここからこの山を登る!?すでに体力は限りを迎え、日頃運動をしていない自分を憎んでも仕方がない。夜はすぐ後ろまで追いかけてきている。果敢な姉のあとを追って足速に山を這い登る。

もしかしたらこのまま日が暮れて道に迷い、死ぬかもしれない。心の底からそう感じた。恐怖。生の感情で、これほど人の希望を損なうものはない。死ぬかも知れない、そう思った時、次のことが頭に浮かんだ。

私は人をバカにしていた。自分たちで作った窮屈なルールに自ら縛られて騒いでもめて、それでもなんともできなくて不満を抱えながら生きてる。なんてつまらない生き方だ!そんなの絶対に嫌だ!と、心のどこかで勝手に見下していた。でも死を感じた時、自分1人の人間がどんなに非力か、そしてこんな驕り高ぶった私が帰れなくなった時、救助しに来てくれる山岳救助隊や警察がどんなにありがたく、頼りになる存在か。人は1人では生きていけない。そんな使い古された言葉を、身をもってわかった。集まって住み、持てる力を持ち寄って互いに協力し、生きていく。人の尊さを、今この年齢で噛み締めた。

そして同時に、自然の慈悲と慈愛を知った。こんな無計画・軽装でどかどか乗り込んできた私に罰を下すどころか、その傲りと盲目さに気づかせてくれた。そして、自分を信じろ。そう語りかけてくれたような気もした。自分を信じること。それは自然を信じることでもある。夜が来たらどうしよう。怖い動物に遭遇したらどうしよう。そんな、結局は保身しか考えていなかった私だったが、本来人間も動物であり、自然の一部である。それをまずは思い出すこと。どんなに恐怖に苛まれても、道は必ず在り、必ず辿っていける。そんな温もりのような声が聞こえた気がした。もう感謝しかない。

つぶの汗をかきながら、山を登りきった。あとは道なりに下山していくだけだ。無事に帰られそうな安堵、そして何より、自然からいただいた多くの気づきによって、鉄のように縮こまっていた心がふんわりと広がり始めた。夜道でもそこまで暗くなく、ぼんやりと道が見えた。目を落とすと、人間の暮らすあの懐かしい街の灯りも見えてきた。涙が出てきた。たぶん、初めて感謝を体で感じたからだと思う。

今度はしっかりと装備して、下調べもして、また六甲山に登ろう。その時はまた違った景色が見られるだろう。



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