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もういないけど(1376字)

 夜も更けたファミレスでのこと。
 地球は平坦だ、と三宅が言うので、私たちは顔を見合わせた。
「知らなかった」と斎藤が言って、「そうなの?」と私が聞き返した。


「『地球は丸い』と初めて教わった時は逆のことを言われたじゃない。地球が地球なんて呼ばれてな」かった頃はそれこそ大地は平面だと思われていて、海のずっと向こうに「端」と「奈落」があると。
 地球は丸いというのは、現代に生きる大多数の人間にとって疑う機会すらなかったことだろう。電気や音や光が「ある」ということぐらい、地球が「丸い」ということは当たり前に認識している。
「じゃあ昔の人が言ったみたいに、端っこがあるってこと?」と斎藤。
「何とも言えない」
「ええ?」
「何故ならその『端っこ』の手前には壁があって、おいそれと見学に行くことはできないんだ」
「じゃあ世界一周をした歴史上の」偉人はどうなるのか。


 初めて世界一周を達成した人物として挙がるのはマゼランだ。しかしマゼランはその半ばで戦死している。遺志を引き「継いだ船団がその偉業を達成したと言われているが、まずその証拠がない」
 三宅は祈るように組んだ手に顎を乗せて言った。三宅はこの驚愕の事実にいつ触れたのだろう。飲み交わした先週末には既に知っていたのだろうか。私たちを驚かせまいとして、黙っていてくれたのか。
「ぎゃ、逆にさ、平坦だっていう証拠はあるのかよ」
「各国から有力な情報が集まり続けているんだ。国際的に有名な教授の名前もいくつもある」
 三宅に言わせると、地球が球状であるというのは科学的にありえないらしい。トビウオが滑空するのも、コアラがユーカリを食べるのも、人間が二足歩行なのも、地球が平坦だからこそのことだと。


 しかし、今さら地球が丸かろうと平坦だろうと私たちの生活には何ら影響しない気もする、と言うと、今度は斎藤が頭を振った。
「違う。それは、それは悪手あくしゅだ。きっとそれは思うつぼなんだ。追及さえされなければ問題ないと安心してやりたい放題している奴がいるってこった。そういうことだろ、三宅?」
「ああ……。その通りだ……」
「そんな!」
 早々に楽観を握りつぶされてしまい、私はどうにかなってしまいそうだと頭を抱えた。さっきまでの楽しかった時間がすでに懐かしく、戻りたいとさえ思う。たとえそれが偽りの世界だとしても。


 私たちは三様に言葉を失った。思いつめる顔、斜め上を見て脳内を探る顔、ぼうっとくうを眺める顔が向かい合う。
「あれ!」不意に斎藤が叫んだ。「ちょ、ちょっとまって!」
「どうした」
「『誰も端っこで泣かないようにと君は地球を丸くしたんだろう?』って歌ってたやつがいたぞ……」


 一瞬、痛いほどの静寂が三人を覆った。恐ろしかった。私の頭の中には聞いたことのあるレドレドレドレドレドレドレミレドが流れ、思考の波が濁流となって暴れた。
 そうか。題名通り、あいつは本当の論者だったのか。
「そいつだ」三宅は驚嘆と憤怒と悲哀の混じった表情を見せた。「そいつが騙した。デマを流したんだ……。いや、あるいは俺たちに知らせるためか――。行くぞ、急ごう。いずれにせよ」
 伝票を掴み、我先にと席を立つ。急ぐ心と相反するように、足がもつれて何度も転びそうになる。


 走れ。急げ。立ち止まるな。
 最後にレジに着いた奴が、奢らなければならないルールなのだ私たちは。



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