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つまらないも、おもしろいも、そう感じる理由がある

いらっしゃいませ!
合同会社つなはぐ相模湖の代表、HYです。


今日の取り組み


販売に向けて、各種ハードソフトを揃えております。

本日は事業場所の契約をしてまいりました。
地元の仲介業者で重説を受け、契約書を作成し、仲介手数料を支払い、鍵を受け取り、現地に行き、窓を開けて空気の入れ替え、中をチェックする。

その他物件関係で必要な手続き&支払いを行う。

支出されるお金を実感すると、
より一層、稼いで利益を出して、お客さんに喜んでもらいたい、
との思いが強くなります。

力を奪う人と力を与える人

そして、タイトルの内容へ。
これも、昨日一昨日の記事で紹介した宮台真司さんの言い方。
「力を奪う人」と「力を与える人」

つまらない理由は、力を奪う人ばかりに囲まれているからかもしれない。
おもしろい理由は、力を与える人としっかりと関係性を作って、過ごしているからかもしれない。

けれどもこの状態では、
自らが他者にどう働きかけているかは、
よく分からない。

力を与える人が身近にたくさんいることが関係の豊かさを生む

力を奪う人、というのは私の解釈だと、自分の中に閉じすぎている人。
自己愛が強すぎる人。
不適応という意味での、閉じ方とは違うものです。
力を奪う人、というのはその真逆のケースもあり、
適応していたり、ものすごいエネルギッシュだったりする。
けれども、実は周囲の本音としては疎まれている人だったり…

適応と不適応・力を奪う人と力を与える人

不適応の状態にある人は、時と場所が変われば、
力を与える人に転換する可能性があります。

過剰適応というのはつくづく危険なことだと、
管見のなかからだけでも、言えます。

それ、お前が本当にやりたくてやっているのか、
と突っ込みを入れたくなります。

過剰適応していない人は、
どうでもいいと思っていることが多く、
最近は、この「どうでもいい」という感覚が、
ものすごい重要なのではないか、と考えています。

「どうでもいい」というのは「いい加減でいい」、
「だらしなくていい」という意味ではなく、
「適応なんてどうでもいい」という自由人的なイメージです。

「適応なんてどうでもいい」
から見えてくる最も大切な何か、
そこに力を与える人になるヒントがあるように感じます。

力を奪う人と力を与える人 どちらになりたいか


もちろん力を与える人になりたい。
いつからそう思ったのかは明確ではないけれど、
30歳を過ぎたくらいから、こういうことに興味が出てきました。

私の前職は高校の教員だったので、
職務内容から言って、どちらにもなれる。

教師の理想像として、
力を与える人になる、というのが、一般解でしょう。

けれども、教師とはいえ人間、
そう簡単にはメタ認知できないし、
動機づけも持てないので、
実際の教員を観察すると、
力を奪う系の人間も結構たくさんいました。

そこに、人間社会の喜びと悲しみが、
こめられているように思います。

私が教員として、
生徒に力を与えることができたならば、
職業冥利に尽きるものだと、断言できます。

ただし、そこのフィードバックは
私と関わった生徒たちに尋ねないと、よく分からないし、
尋ねてみても、数値化できるような力を与えたレベル、
というのは永遠に表れてこないだろうし、
現われなくてもよいと思っています。

事業での価値創出、人との新たなかかわりを生み出す

学校教育の現場は離れましたが、
これからは、経営や地域活動において、
力を与えることができればと思います。

ローンチに向けて準備をしております。
お客さんへ商品を提供することを、とても楽しみにしています。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

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