スナックJ
「よかったらどうぞ。飲み放題歌い放題で4,000円ぽっきりよ」
50代後半から60代といったところだろうか。セットに15分はかかりそうなこだわりの前髪を携えたママが優しく語りかける。アイラインがしっかりと引かれた目尻を抜きにしても、はっきりと綺麗な目鼻立ちが印象的だ。ところどころ語尾が半音上がるのは果たして博多弁なのか、個性なのかはまだ判別がつかない。なんとなく商売っ気のなさそうな雰囲気に安心して入店した。なんとなく。
店内はL字形のカウンター5席でこじんまりとしているが、それが不思議と心地よい。先客は女性一人だけ。ママと同じくらいの年代だろうか。目尻の方へいくにつれ、上にカーブした独特なフレームの眼鏡がよく似合っている。常連さんなのか古くからの付き合いなのか、心理的距離の近さを感じる。L字の短い方の隅っこの席を陣取り、長らく同じ席に座っていることを表すグラスから滴ったであろう水滴がカウンターに点々としている。
34歳にもなって初めての一人旅。博多の地を選んだことに深い意味はない。縁もなければゆかりもない。マッチングアプリでデート相手を仕込んできたわけでもない。なんとなく、人が多く寂しくなさそうで、LCCで安く飛べたから。強いていうなら明太子は大好きだ。
意気揚々と金曜日の仕事を終えて夜便で羽田から博多へ。到着してからというものひどい大雨。空港からタクシーでそのまま中洲の屋台へ向かうも早々に切り上げることにした。雨が降る寒空の中、わざわざ外で晩酌する必要なんてない。海外からの観光客や、カウンターに三脚を置いて何やら配信している様子の若者たちは、わざわざ屋台で晩酌したいようだ。
駅の売店で買ったずっしりと重量感のある折りたたみ傘を広げ、屋台街を抜ける。無心で明かりに吸い寄せられてみると、所狭しとキャバクラ・ガールズバー・クラブが立ち並ぶ。ぼんやりと隅から見渡してみるが、スナックが見当たらない。僕はスナックを探している。スナックにこそ今の僕が求める36.5℃の温もりが存在している気がするのだ。女性キャストの薄着に合わせた暖房28℃設定のお店は今の僕には暑苦しすぎる。自然体の温もりを心で感じたい。
「何にする?焼酎?ウイスキー?」
麦焼酎の炭酸割りをもらう。これまたよかったらどうぞとカットレモンを添えてくれた。1杯目はレモンをあえて絞らずにそのままで。焼酎の味はよくわからないタイプだが、なんとなくその方が酒飲み風情がある気がする。なんとなく。
「・・・お・・・おいしい」
これはいつもスナックで飲んでいる麦焼酎じゃないぞ。いいちこでも二階堂でもない。この鼻にぬける芳醇な香りはなんなんだろう。
「それね、黒霧島酒造が出している麦焼酎なのよ。ところで福岡の人?」
生まれも育ちも東京で、金融機関の営業職をしていること。人生初の一人旅で博多に降り立ったこと。中洲の屋台で食べた焼きらーめんは意外と味付けが甘くてあまり口に合わなかったこと。ママの質問力は絶大で、気づけば自分のことをさらけ出してしまう。いつもなら自分の話をするのは苦手なんだけどなあ。そんな話を常連さんもニコニコしながら聞いてくれていた。
「お兄さん世代はどんな曲を歌うの?聴きたいなあ」
常連さんが僕にデンモクを手渡す。初めてのスナックで歌う1曲目はいつだって緊張するものだ。履歴を確認すると、町内会の名簿のように初見の歌手名がずらりと並ぶ。名前から推察するに年齢層は高めで、同年代が来店している形跡はない。唯一見覚えのある「恋するフォーチュンクッキー」は誰が歌ったのだろう。
「尾崎とか歌いそうねえ、お兄さん」
1曲目に悩む僕に、ママがまたもや絶妙な助け舟を出してくれる。久しぶりにあれを歌おうか、「僕が僕であるために」。いつどこで覚えたのかわからないけれど、昔からずっと好きな歌だ。この店内で歌うにはあまりにもしっとりしすぎてしまいそうな気もしたが、まあそれも良いか。
デンモクの歌手名検索で「お」と入力したまさにその瞬間。突然、店内の照明が全て消えて真っ暗になった。世界の絶景が繰り返し映し出されていたカラオケ用のモニターも、マリリンモンローのフィギュアを照らしていたスポットライトも消えてしまった。おいおいまじかよ。
常連さんの誕生日か?と疑ったが、そうでもない様子。僕の手元にあるデンモクの液晶だけがわずかな光を放っていたが、店内を灯すにはあまりにも役不足だ。
「近くに雷でも落ちたのかしら。ここで30年もお店をやってるけど営業中に停電するのは初めてよ。ちょっと待ってね」
ママは初めてという割に特段慌てる様子もなく、手探りで何か明かりを灯すものはないかと探っていた。
「ママ、ちょうどろうそくがあるわ。お仏壇用のものだけど良いかしら?」
「ふみこさん、よくろうそくなんて持ち歩いてるわね。助かるわ」
ママはろうそくを立てる小皿とマッチを常連さん改めふみこさんに渡す。ふみこさんの前と僕の前に1本ずつろうそくが置かれた。
「カラオケどころじゃなくなっちゃったわね。でもなんだかろうそくの火って安心するわ」
ふみこさんと僕のお酒を作ったあと、ママも自分のグラスにウイスキーを注ぎ氷をひとつ落とす。カウンターから出てきて、僕とふみこさんの間の席に座った。狭い店内でろうそくが2本立つ様子はまるで何かを召喚する儀式のようで客観的に眺めたら少しばかりおかしかった。
「ママ、もう30年以上もお店やってるんですね」
僕が不意に発したこの一言をきっかけにママはいろんな話を聞かせてくれた。19で夜の世界に飛び込んで、25で未婚のまま娘さんを産み女手ひとつで育てあげたこと。その娘さんも一昨年結婚して二人目の孫がお腹の中にいるらしい。
「今が一番しあわせなのよ」
そういってウイスキーのロックを口にするママ。ろうそくに照らされる表情はとても柔らかく優しかった。
それから他愛もない僕の悩みを聞いてもらった。周囲の友人がどんどん結婚していって焦っていること、恐らく会社の出世レースには出馬すらできていないこと、そろそろ一人で生きていくことを見据えて1LDKの中古マンションを買おうか悩んでいることなど。こんなこと親友にだって話したことないのになぁ。
「40までは賃貸でいいんじゃないかしら?まだまだ人生何があるかわからないわよ。10年前に亡くなった夫も私と出会う前に買ったマンションが、中々売れなくて大変だったんだから。なんだか懐かしいわ。よくここにも2人で遊びにきてたのよね」
ふみこさんがろうそくの火をぼんやりと眺めながらアドバイスをくれる。
「あら。ふみこさんからひろしさんの話を聞くなんて珍しいわね。ひろしさんもよく尾崎を歌っていたのよね」
それから3人で何杯ものお酒を飲み交わした。冷蔵庫にあまおうがあるから悪くなる前に食べちゃわなきゃとママが出してくれたタイミングで店内の明かりがつく。本来ならばもっと喜んで良いはずなのだが、心なしかちょっぴりがっかりした自分もいた。
「久しぶりに歌っちゃおうかしら」
ふみこさんが聖子ちゃんをさらりと歌い上げる。ほんの少しだけ口臭が気になった。
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