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風と空について



風と空は私の友達でいてくれるから、大丈夫。
私は独りだけど、ひとりじゃない。
風と空は私のそばにいてくれる。

風のことを強く意識できるのは、家の近くまで帰ってきたとき。力が強くて、でもどこか優しくて、涼しい風が向こうから吹いてくる。
その風は、真剣に私の体に当たって、髪の毛をぐちゃぐちゃにして、目元から腕や手のひら、太もも、足の先まで、服の間を縫って勢いよく肌に触れては去っていく。
そのことを、嬉しく感じる。触れられている、そのことを、きっと、私は嬉しく思っている。家の入り口が目前という道で、そんな風が吹きつけてくると、私は目を瞑ってただ風に当たる。そして、一歩ずつゆっくりと歩みを進めながら全身でその風に会いにいく。それはまるで勝負に挑むみたいな感じ。負けるわけなんてないのだけど、その風は私の進む力と同等な力で押し返してくれる、ような気がする。それは、誰か他人にはできないことで、風だけができて、風を相手にするから安心できる嬉しさみたいなものなんだと思う。だから、その風のことを友達だと、自分のことを受け止めてくれる友達だと信じる。

いまでもその風を、いちばん親しく思う。


空はいつでも味方についてくれる。悲しくてどうしようもないとき、ベッドに横になると、カーテンの隙間から紺色の夜空と白い月が見える。なにかに熱中して命燃やしているとき、『ありがとう』と伝えるのは、夏空を見あげながら自転車を漕いでいるとき。なぜそんなことをするのかわからないけど、自分がひとりであることを確かめるときは、ベランダに出て星を探すように黒い空を見上げる。星の代わりにキラキラする街に向かって、手を伸ばして掴んでみようともする。誰もいない家の中、部屋や廊下にただ風が通り過ぎるとき、なにかを思い出したように涙が流れたら、窓の外には淡い水色の空だけが広がっている。悲しくても、幸せでも、ぼーっとしてても、涙を流していても、空は私のそばにいてくれる。だから、空だけは必ず味方でいてくれると信じる。

そうして、祈りを捧げるときも、感謝を伝えるときも、空に向かってすることを約束した。

中学生のとき、こんなことを考えていたと思う。


さっき、そんなことを思い出した。厨二病の私から、中身は変わっていないんだ。そのことを可笑しく思う。



今日の東京は涼しい夜で、風が少し強かった。街では「さむい、さむい」という声が聞こえたけれど、札幌ではこれくらいの温度が心地よかったりして、私にとっては優しい春の夜風だった。
気ままに吹きつけてくる風が、私の肌が記憶していた親しい風を思い出させた。その記憶と今日の風を行ったり来たりしながら、夜の散歩をした。



最近、よく踊れるようになってきた。風と遊んで、音楽を形にして、腕や指のしたいことをよく聴く。そんなことをして、歩きながらずっと踊っている。
電車の中では、目を瞑って、イヤフォンから聞こえてくる音楽に合わせてイメージで踊っている。頭の中にちいさな私がいて、何かしら音を形作っている。
頭の中で踊るちいさな私くらい、自由に、自在に、動けたらどれだけ気持ちいいだろうか、と想像する。そして、この身体でも踊らないといけないぞと、しゃんとする。

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