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四階、特別資料室

通っていた大学の図書館では二階が入り口になっていて、その階は一般書コーナー。
三階は専門書。地下一階と二階には研究書庫が並んでいた。
マンモス校と呼ばれるその人口密度の高い大学の中で、日に一度は地下の研究書庫へ本の背表紙を眺めに下りて、心を落ち着かせていた。

大学卒業間際をヨーロッパのチェコで過ごしていた私は、周りのヨーロッパ学生たちの「芸術万歳、いられる限り学生で、労働は最低限」の風潮にすっかり感化された状態で大学五年生を迎えていた。
学生だから無理かなと思いながら、大好きな図書館でアルバイトができないか探してみたら、ちょうど「特別資料室」なる場所で募集があるとのことだった。

その図書館には、あまり知られていなかったが、四階もあったのだ。
四階に特別資料室という部屋があるらしい。その奥には大学院生以上しか入れない古書資料庫と、職員しか足を踏み入れることのできない貴重資料室があるとのこと。貴重資料室には同大学出身の作家の直筆原稿などが収められているという。

毎日通っていたのにも関わらず、四階に上がるのは初めてだった。
平山郁夫の巨大な絵が飾られている大階段は三階までしか続いていないので、端の方にあるエレベーターか、職員用の階段を上っていくしかない。
部屋への扉は閉まっている。開けると、外界に晒されていないぶん濃く詰まった古書の香りがあたりを包む。
「ここにあるのは江戸時代以前の本が基本です」
「主な仕事は、古書の虫喰い跡を和紙と和糊を使って修補する作業です」
「利用者がある時にはカウンター業務をお願いします。利用者はおおよそ日に3人ほどです。古書を汚さないよう、まずは利用者に手を石鹸で洗ってくるようご案内すること」
など、「はい、今すぐに働き始めてそのままここで骨を埋めたいです」とうっかり返答しそうになるような魅力的な説明を受け、そこでアルバイトをすることになった。

この時、「チェコってカフカですよね」とか「好きな作家は? 中上健次? ほお」とか雑談をして雇ってくださった、一見して普通の大学職員じゃないでしょうと感じさせるオーラを持った人は、詩人の岩佐なをさんであった。

岩佐さんの好みで採用されているからか、その、自由が売りの大学の特徴なのか、他のアルバイトたちも皆、夜間学部に通いながら映画界を目指している人とか、プロの棋士を目指している人とかだったので、大学五年でチェコ帰りな私でも全く浮かない雰囲気だった。

私たちは言葉少なに出勤し、手を洗い、古書資料庫から虫喰い穴のある本を取り出す。
冷蔵庫から和糊を出し(常温だとかびるので)、筆を使って水でとく。
程よい和紙を探し出すと、虫喰い穴に合わせて糊で張り合わせる。
江戸時代に墨で書かれた文字の欠けた部分を想像しながら埋めていく。
一冊の本を修補するのに一ヶ月ほどかかってしまう。
「二百年や三百年、寝ていた本です。急がなくていいんです」
岩佐さんにそう教えられて、得も知れぬ安心感を覚えた。

留まる、または場合によっては後退する、という価値で動く職場だった。

今、正体のわからない忙しさが体の周りにまとわりつくとき、この場所の記憶に助けを求める。
埃っぽくて甘い、古書の香りを呼び戻す。
大丈夫、あの古書たちは今も、急ぎもせずにあの棚で寝ている。

Makiko


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